▼私のかわいいお犬様 「あ!おかえりぃ!●●!」 電子カードを改札の読み取り部分に当てて、ピッと鳴る高い音と同時にそこをすり抜ける。 特急が到着した直後だ。 溢れるような人の波に、ピッピッと何度も聞こえる認証音。 知らない人達の喧騒と仕事終わりの倦怠感と一緒に、駅から一歩踏み出せば、籠るような夏の空気を切り裂く高らかな聲。 仕事終わりの気怠さを一掃するかのような心地良さだ。 『あれ、音也?』 「うん!お疲れ様!」 駅の目の前の街灯の下、その灰色の柱に凭れ掛かっていた赤毛が揺れる。 アタシの聲に合わせて、ピョコンって言う効果音がぴったりな程一度跳ねて、大きく手を振った。 太陽のような輝かしい眼をキラキラさせ、そして足下に置いていたサッカーボールを抱えて走ってくる。 その姿はまるで忠犬ハチ公のようだ。 や、音也は“忠犬”じゃないな。 忠犬って言うと“忠実な犬”。 犬であっても忠実ではないな、大型のわんこだ、なんて思いながら、駆け寄る音也に『ただいま』と告げた。 『なんでここに?』 「最近帰るのが10時頃になるって言ってたからさ。迎えに来たんだ。夜道暗いしね!」 『そっか、有難う。今日は仕事じゃなかったの?』 ウソ。 前言撤回。 忠犬だった。 実に忠実なお犬様だ。 アタシの周りを一度くるっと回って、「珍しく連休がもらえたんだぁ」と嬉しそう。 ピンと立たせた耳と、ちぎれんばかりに振る尻尾の幻覚が見えてきそうな程。 気に入ってると言っていた、カットソー素材のジャージを腕捲りして、サルエルパンツにごつめのスニーカーと言う私服姿の、ここのところあまり見る事も無くなっていたラフな格好をした音也。 どちらかと言うとこういう音也の方がアタシは好きだ。 綺麗めのジャケットを着て、トキヤの横で大人びた顔をしている音也は対処に困る。 すました顔はアタシの知らない音也になってしまったみたいにも思えるから、デビューして人気も仕事も順調で、環境も落ち着いてきたことは非常に嬉しい事だけれど。 「あ、そだ。昨日の生放送見てくれた?」 『翔君と出ていたやつね。見た見た。音也、生放送でも失敗しなくなったよね。新曲すっごく良かったよ。』 「ホント!?CDもらえたらまた●●にあげるね!」 『うん、ありがとう』 器用にリフティングをしながら、駅から帰路につくアタシの隣を同じ速さで歩く。 ポンポンと一定のリズムを刻みながら、サッカー好きだよね、なんて他愛のない話をしながら。 それに応える様に、擦り切れて泥だらけのぼろぼろのサッカーボールをバウンドさせた。 「●●、ご飯は?ファミレスでも行く?」 『もちろんまだだよ。家にそうめんがあったからそれで済ませようかなって。』 音也とファミレスになんて行けるはずないでしょ、って音也の足から離れて宙に浮いたボールに手を伸ばし、払うように奪う。 “やっと明日休みなんだから、ゆっくりしたいしね”と付け足して、見よう見まねでパンプスのつま先で蹴り上げれば、真上に飛んでくれなかったソレを音也のスニーカーがキャッチ。 「ナイスパス?」 『違うよ。リフティングってやつをやりたかったの。』 無理だったけど。 一週間働いた身体では一度上げるのが精一杯。 一瞬の運動ですらやらなきゃ良かったって、身体中が言ってる。 息を吐くと同時に漏れそうになった溜息を飲み込んで、ずれたカバンを担ぎ直せば、休み中に仕上げようと思って持って帰ってきた書類がずしりと肩に圧し掛かった。 常に華やかな世界に居る音也とは、かけ離れている自分。 国民的アイドルと、ただの一般人。 「●●?眉間に皺、よってるよ。」 『あ、』 「また良くない癖?」 普段は何も考えていない様な天然君なのに、こうい言う時だけ何もかもお見通しって、心の靄を見透かして、ソレを祓う様に音也の大きな手が髪を撫でた。 『あはは、そーだね。…ありがと、ここで良いよ。』 駅から15分の距離はいつの間にか終わりが見えて、もうマンションはすぐそこと言う距離にあるコンビニの前の分かれ道。 音也の帰路的にもここで別れた方が都合もいい筈で、毎回ここまでで終わりにしているのだ。 どこかへ出かける時もここが待ち合わせで、送ってくれる時もここまでで。 そんな決まりごとの様な分かれ道。 音也といるといつも一分一秒が何倍にも早く感じる。 あっという間に終わってしまう。 「…わかった、じゃあさ、●●んちに泊りに行っていい?」 『え?今日?』 「うん。今日。」 『でも、』 「だって俺も●●も明日は休みだよ?」 “遊んでよ”って耳元で囁いて、アタシの頬に手の甲を摺り寄せて。 そして悪戯を思いついた子供みたいに無邪気で、でもどこか意地悪に笑って。 もう少し長く音也と一緒に居られる、そう思った瞬間に。 喉元をトントンと音也の指先が跳ねた。 「久し振りに食べたくなっちゃった。」 “●●を” ごめんなさい。 また、前言撤回します。 全然忠実じゃなかった。 そして犬でもなかった。 急上昇していく体温と、ドキンと大きく鳴った心臓に落ち着けと言いながら、頬を撫でる手に口付けを。 ちいさく“やった”ってふさふさのしっぽを振りながら、アタシの肩から鞄を取って、空いた手に指を絡ませて。 お腹が空いちゃったって。 犬だ犬だと思っていたのは大誤算。 アタシの彼は人懐っこい“オオカミ”でした。 『…お手柔らかに。』 お願いしますね。マイダーリン。 End 20120811 音也が犬っぽいって感じを書きたかったのですが…。 何度も犬犬言ってゴメンなさい。 そして音也も男の子なんだよって感じにしたかったのですが、わかりづらかったですね。 精進します。 ←一覧へ |