▼song for you 「好き。」 割と朝早く、の空き教室。 窓際近くの壁。 電気は点けていない。 廊下に続く扉は薄く開いている。 自分の聲が響く。 彼女のひんやりとした指先がオレの髪を撫でるように触れる。 くすぐったくて、心地良かった。 song for you 今朝明け方に仕事を終えて帰ってきたトキヤのお蔭でいつもより1時間以上早く登校して、誰一人いない校舎の静けさの中を、朝方の冷えた空気を楽しんでみた。 静かな建物の中に居るのは不快ではなかった。 少し前まで生活していた施設も朝は静かだったから。 職員の先生達が朝ごはんを用意する、コトコトという小さな音としとしとと降る雨音だけが聞こえる部屋に一人でいた。 朝早くはそんなに得意ではないものの、ホンの時たまに、こんな雨の降る朝は意識が冴え切ってしまうことがあったから。 そんな記憶と共に、普段は賑やかな空間に佇んでいた。 不機嫌なトキヤが作った野菜ジュースをコップ一杯もらっただけなので、きっと今日は授業中にお腹が空いてしまうなと思っていた。 数か月しか使っていないのにもう草臥れ出している学生鞄を肩に掛け直した、その時だった。 天井の高いこの校舎の長く続く廊下の向こう側から聞こえる靴音。 自分のソレよりも少し高い音。 カツンと癖のある歩き方に、窓の外に向けていた視線を送る。 歩く度に跳ねる栗色の髪と、胸元のリボン。 そして黄色のチェックのスカート。 左手で教科書やノートを抱え、右手の人差し指が空を舞っているのが見えた。 彼女の癖、だ。 「●●。」 耳に当てていた赤色のヘッドホンを首にかけて、流れている音楽を液晶も見ずに止める。 空いた手で軽く前髪を梳いて、彼女の名前を呼んだ。 オレの聲はこの澄んだ朝の空気を震わせて彼女の耳に届いた様で、廊下に小さく木霊すると同時に、足元に向けていた彼女の目線が上がる。 メロディをなぞっていたと思われる唇が“あ、”と微かに動いたのが見えた。 彼女の聲は小鳥の囀りの様な軽やかで可愛らしい。 白くて小さな手がすっと上がり、左右に揺れてオレに答えた。 『おはよう、音也。今日は早いんだね。』 「うん、目が覚めちゃって。」 『珍しい。だから雨降っちゃったのかな。』 コロコロと鈴が鳴るかのように笑いながら、駆け寄ったオレの前で足を止めた。 十数センチ小さな彼女が話す度に上目遣いになる。 それと教材を落とさないようにと、きゅっと抱きしめる手。 無意識だろうけれど、とても可愛いと思った。 ●●は同じクラスメイトで、作曲家志望だ。 彼女と仲良くなるには数か月要した。 別に人見知りというわけでもないし、大人しい性格というわけでもない。 どちらかと言えばお喋りで、人懐っこく、友人も多いようだ。 けれど、決して群れる事無く、空き時間に賑わう教室の中で、静かに窓の外を眺めるのが印象的だった。 頬杖を付きながら、青い空を漂う白い雲を見ながら、悠々と青に抱かれる鳥達を見ながら、薄く開いた唇がホンの微かに動き、右手人差し指が揺れる。 その癖に気付いたのもその時だった。 「●●は、いつもこの時間なの?」 『うん。』 「授業まで結構時間あるのに。早起きだね。」 そう、言えば、長い睫毛がゆっくりと一度上下する。 血色の良いふっくらとした唇が弧を描くのが見えた。 『音也、朝ごはんは?』 「トキヤの作った野菜ジュースをちょっと拝借したよ。」 『それだけ?』 「うん。多分昼休みまではもたないから、休み時間にサオトメートでパンでも買おうかなって思って。」 『良かったら…、』 肩に掛けていた小さめのトートバックから、サンドウィッチを取り出して、“一緒にどう?”と言った。 ラップに包まれたソレをオレの方に渡して、“紅茶もあるの”と更にトートバッグを漁る。 そしてシルバーの保温性のある水筒を取り出した。 ちゃぷんと中で琥珀色のソレが波打った音が聞こえた気がした。 「じゃあ、ちょっとちょうだい。」 『ちょっとと言わずに。』 くすくすと聲を漏らして、頬を緩ませる。 それに釣られてオレの口元も緩んだのが分かった。 ●●と仲良くなるきっかけは、無かった。 パートナーは同じクラスの女子。 クラシックを得意とするソプラノの聲の持ち主と早々にペアを組み、彼女の歌を書くために空いている時間は作曲に勤しんでいた。 対してオレの休み時間の過ごし方と言えば、マサや那月達と話をして盛り上がったり、翔達とサッカーをしたり。 仲の良いメンバーと中庭で昼食を摂っているのを何度か見掛け、放課後になればいつの間にか姿を消す●●。 きっと曲を作るためにレッスンルームやレコーディングルームに籠っていたんだろうけれど。 席も窓側と廊下側。 教室という空間内で●●と会話する事なんて、無かったのだ。 『こっちの教室、鍵が開けっぱなしなんだよ。』 「…っ、●●、」 『ん?』 ジャケットの袖口近くをクイッと掴まれて、引っ張られる。 いきなりの事で少しだけ身体はバランスを崩したものの、床をタンと叩くように下した右足のお蔭で踏み止まる事が出来た。 「そこ、掴まれると歩きにくいよ。」 『あ、ごめん、』 ●●から手渡されたサンドウィッチと“持つよ”と預かった水筒を抱えるように持っていた右手。 左手に荷物を全て持ち直して、●●の手を取った。 「この方が歩き易いからさ。」 歩き易い、だなんて。 自分の発した言葉に嘲笑にも似た笑いが込み上げてきたが、大きく口を開けて欠伸に混ぜて掻き消した。 仲良くなるきっかけなんて、何処にも無かった。 いつだって無意識のうちに視界の端に映り込む●●。 彼女の視界にオレが映り込んで欲しくて、ワザと。 そうでもしなければ、決して交わる事はなかっただろう。 “音也”と呼ばれる事も無かった筈だ。 ワザと●●の前で転んで、ワザと擦り剥いた。 思っていた様には血なんて出なかったけれど、チェック柄の絆創膏を差し出しながら心配そうに覗き込む彼女の眼に漸く映り込んだ自分に、久し振りに感じた喜び。 「擦り剥いちゃった。」 『ちゃんと前見て歩かなきゃダメだよ!手ぇ出して!他に擦り剥いたとこは!?』 「大丈夫。オレ丈夫だから!」 先程まで空を舞っていた指があたふたと少し震えながら、手の甲に触れる。 『丈夫とかそういうことじゃなくて、』 “一十木君の手、綺麗なんだから” それまで一度も言葉を交わしたことはなかったし、一十木音也と言う名前のクラスメイトがいるということ位しか把握していないだろうと思っていた。 そんな彼女に自分の身体のどこか一部分であっても、綺麗と言ってくれたことが意外で、驚きで、嬉しかった。 それからだ。 徐々に●●との距離を縮める様に、何かにつけて彼女に話し掛けた。 “一十木君”から“音也”に変わるのには、そう時間は掛からなかった。 おおらかだとよく言われる自分の性格を良い事に、彼女の事を“●●”と呼んで、彼女の隣を自分で埋めた。 「窓側の席を借りよっか。」 『今日は雨なのに、明るいね。』 「こういうの、狐の嫁入りって言うんでしょ?」 つい先刻からしとしとと降り続く雨は地面に小さな水溜りを作り、透明なガラスの窓を軽くノックしている。 空を見上げれば、薄く広がる雲間から、穏やかな日差しが射し込んできていた。 『よく知ってるね。』 「へへ。」 昔、誰かがそう教えてくれた。 太陽が照っているのに降る小雨の事をそういうのだと。 授業開始まであと一時間とちょっと。 多分その頃にはもう止んでしまって、きっと地面も乾いてしまう。 長くは続かない、この天気。 机の上にサンドウィッチと水筒を置いて、椅子に座れば、その前の席に●●が座る。 「いつもと逆、だ。」 休み時間でも自席から離れることが少ない●●の前の席に座ることが多くなっていた。 少しでも●●と話がしたかった。 無意識に口遊んでいる彼女の歌が聞きたかった。 リズムに乗る指先を見詰めたかった。 あぁ、そうか。 『…お、と、』 「●●。」 繋いだ手を離さずに。 ここに来た当初の予定なんてもうどうだって良い。 「好き、だ。」 ぴくりと跳ねた肩。 その微かな動きが腕を伝って指先を伝って、オレに届く。 きゅっと、●●の冷たい指先がオレの手を握る。 目線を上げれば、強い●●の眼。 逸らさない。逸らせない。 『音也。』 空いている方の●●の手が撫でる様にオレの髪を梳く。 心地良くて、肩と頬でソレを挟んで、無意識に擦り寄る。 シンと静まり返る校舎の中、オレと●●の二人の存在しか感じられなくて、彼女の聲とオレの聲だけが響いて。 『アタシもすき。』 ふふ、と●●の喉が鳴る。 今まで一人だった。 けれど。 ●●が応えてくれた。 『音也は太陽みたい。温かいから、胸がね、ぽかぽかするの。』 泣いて、しまうかと思った。 目頭が熱い。 涙が零れ落ちなかったのは、髪を梳いていた●●の指先が掬ってくれたからだ。 その手に自身の手を重ねて、掌に口付けを落とす。 嫌がる素振りは微塵も感じられなかった。 そう頭が理解する前に、立ち上がって、●●に。 ゆっくりと閉じる瞼と、繋いだ指先が愛おしくて。 キスをした。 「●●、大好き。」 もう雨は、降らない。 ふわりと●●が微笑んで、オレもぽかぽかに、なる。 End 20120519 音也はちょっと狡賢いわんこタイプだったら激しく萌える。 そしてちょっと鬱っぽくて、ちょっと依存系。 おおらか過ぎない方が書きやすいです。 翔ちゃん夢のHappinessと少し表現を被せた所があったりします。(元々語彙は少ないですが…) ←一覧へ |