▼藍色の海の夜想曲 「…●●、俺を拒むな。」 やけに熱の籠った視線と、艶を含んだでもどこか辛そうな聲が降ってくる。 肩に軽く乗せられたピアニストの掌は痛くないけれど、逃げるなと言わんばかりにアタシを捕らえ、背中に触れる壁が退路を防いだ。 目の前にいる男とアタシは、身体中を流れる血液の何分の一かが同じ。 所謂親戚と言うものだ。 小さな頃から面倒を見てくれて、つい今先刻までは兄と慕っていた。 ほんの数分前までは。 藍色の海の夜想曲 『真斗兄!』 父の書斎の扉を勢い良く開ければ、革張りのブラウンのソファに座る藍色の彼。 皺一つない白いシャツが彼の持つ清潔感を引き立たせ、ピンと伸びた背筋が彼の真っ直ぐな性格を表していた。 ぎっしりと分厚いハードブックばかりが詰まった本棚が所狭しと壁を埋める書斎の真ん中で、母が用意したであろうウエッジウッドのティカップをローテーブルに下ろす。 カチャンと小さく陶器の摩擦音が聞こえ、琥珀色の液体が波打った。 それを見計らって、再度“真斗兄”と呼ぶと、大きく腕を広げてくれる。 その中に迷わず飛び込んだ。 「●●。」 家の門から室内に踏み込むまで、母が好きなライラックが庭を埋めている所為か、仄かに彼からその香りがした。 でもそれも一瞬の事で、石鹸の爽やかな香りが鼻腔を擽る。 真斗兄らしい香り。 彼は香水を付けない代わりに、清潔な石鹸の香りを常に纏っていた。 汚れなんて無関係のように。 『おかえりなさい!真斗兄!』 「あぁ、ただいま。変わりはないか?」 『うん!』 父がアタシの名前を呼んで止めなさいと制するのも気にならない。 無視して話を進めれば、“まったく、”と呆れた聲と溜め息が聞こえる。 それに真斗兄は“大丈夫です”と笑ってみせた。 アイドルとしてデビューした我が親戚は、デビューから数年経っても変わらない人気を保っている。 元々よく海外へ行ってはいたものの、仕事として歌の収録やPV作成、ドラマや雑誌、バラエティ等の撮影に日本を離れることが増えた。 住む場所も真斗兄の事務所が借りてくれていると言うマンションからは遠く離れている為、ここ数年は頻繁に逢うことすら出来なくなっていた。 『今日はゆっくりしていけるんでしょ!?晩御飯は一緒に食べれる!?泊まっていける!?』 年明けぶりの真斗兄に顔は綻んでいく。 それに気付いた彼も、アタシの髪を梳いては撫でてを繰返し、思いっきり甘えさせてくれる様だ。 太陽の光はまだ暖かく降り注いでいるものの、その色は橙に近づいて、もう1時間程すれば没してしまう。 ここ数ヵ月分の話をするには足りない。 いや、時間なんて幾ら有っても、多い事はない。 矢継ぎ早に口から出た質問は真斗兄の“●●”と言う聲とクスクス柔らかな笑みに包まれる。 そしてポンポンと頭を撫でてくれた。 「少し落ち着け、●●。叔父さん、お邪魔しても宜しいでしょうか。」 『構わないよね!良いでしょ!?』 父や母も真斗兄の事は昔から我が子のように可愛がっていたし、最近の活躍を見て嬉しそうにしていたのを知っている。 ダメだと言う筈がなかった。 “勿論よ”と母が言い、それに父も大きく頷く。 それは真斗兄と過ごせる時間が増えた合図でもあった。 “今晩の夕食は豪華にしなくちゃね”と母がシェフに献立を相談しにキッチンへ向かい、“真斗君に振る舞わなくてはな”と父がワインセラーに向かう。 アタシと同じく喜ぶ両親に少し笑えた。 『ねぇ、真斗兄。今回はどんなお仕事だったの?』 「今回はPV撮影でオーストラリアに行ってきたんだ。天気も良くて…、」 オーストラリアなんてもう何度も行ってる筈なのに、真斗兄から聞く話はまるでお伽噺のように胸を踊らせる。 それは彼も同じようで、もう何度目かの異国も、全く違った土地に感じる位、楽しく仕事が出来たらしい。 広大な空の青さや、透き通るエメラルドブルーの海に、夜に現れる南十字星。 道の広さ、地平線に、豊かな自然。 「朝市は道を埋め尽くす程の店数でな。フルーツを買って食べたのだ。あぁ、それに夜、一十木と外を歩いたんだが、コアラの鳴き声を聞いた。」 『コアラって鳴くの!?』 「あぁ見えて実は獰猛なんだぞ。」 『間近で見たことないもん。』 「そうか…、」 母がお茶請けに出していたクッキーを摘まみながら、尽きない話題に夢中になった。 時が経つのも忘れ、ふと気付けばいつの間にか窓の外は深い深い藍色になっていた。 「…コアラは輸入してやれんしな。」 『要らないよ、獰猛なんでしょう?』 腕を組ながらどうしたものかと唸っている真斗兄を横目に、オーストラリアの夜空は何色だったっけ、なんて。 去年パーティに出席する為に、家族で渡豪した筈の曖昧な記憶を探る。 今回は仕事が忙しいからと真斗兄は丁重に辞退していた。 だからなのか、数日間滞在していたのにも関わらず、その間の記憶はぼんやりとしたものだった。 少し前までは真斗兄にエスコートされて、一緒にワルツを踊って、一緒に抜け出して。 思えば今までの鮮やかな記憶の中には全て、彼がいた。 ぼんやりと靄が掛かっているものは全て最近の、真斗兄が忙しくなってからのもの。 少し距離が出来てしまった関係がとても寂しくて、そう感じた自分が嫌になった。 真斗兄の活躍を誰よりも喜んで応援してた筈なのに、アイドルなんて、と思ってしまった。 アイドルの聖川真斗ではなく、真斗兄でいて欲しいと願ってしまったのだ。 「●●?」 真斗兄が伺うような聲色でアタシの名前を呼ぶ。 窓の外と同じ、吸い込まれるような深くて森閑として、それでいて穏やかな藍。 焦点が合わないでいた目線にその藍が映り込んで、ハ、っと息を吸った。 「●●、コアラは輸入してやれないが、いつか共に見に行こう。」 『え…、ホントに?』 「あぁ、約束だ。」 ふわりと真斗兄が笑う。 「小指を貸せ。」 『…ん。』 子供の頃からの変わらない儀式。 コツンと額と額を触れ合わせ、小指を絡ませる。 それを合図に、ゆっくりと瞳を閉じた。 真斗兄の穏やかな吐息と、“約束だ”と言う聲が鼓膜を振動する。 そこから脳内に響いて、痺れる程の甘い余韻が広がった。 それに合わせて小さく頷いて、顔を上げた。 窓の外で風が吹いて、庭の木々がざわめく。 真斗兄の藍の向こうで月暈が見えた。 ゆっくりと離れていく額と、アタシの顔に掛かっていた影。 絡まる視線。 雲で和らげられた月の光。 藍色と白のコントラスト。 身体が傾いて、力強い腕に包まれて。 噎せかえる程の石鹸の香り。 『真斗兄…、』 「…もう兄と呼ぶのは、止せ。俺はお前の…兄ではない。」 ゼロ距離の切なげな聲。 突き放された瞬間に愛おしげに梳かれる髪。 視界を埋める彼の髪と、そこから微かに覗く月。 抱き締められたところから伝わる彼の体温が、熱い。 『ま、さと…?』 「…あぁ。」 背中に回っていた彼の手が、指の背が頬を撫でる。 “真斗”と。 そう小さく呟いた瞬間、彼の瞳の色が変わった気がした。 いや、深く透き通る藍には変わりないし、勿論優しい眼差しではあるのだけれど、何処か今まで見たことのない色。 まさか、これが。 先日レンさんが言っていた、“男の人の目”なのだろうか。 いや、そんな筈はない。 彼の住む世界にはとても綺麗な人達が溢れ返っている。 大人の女性も沢山居て、こんな子供っぽいアタシなんて相手にしなくても、不自由ない筈。 「●●。」 やけに熱っぽい艶の含んだトーンでアタシの名前が紡がれて、背ではなく掌が頬を包み込む。 親指の腹が頬を一撫でするのを感じ、ドクンと心臓が鳴った。 譫言のように降ってくる“好きだ”と言う言葉。 サラリと髪が揺れて、傾けられる彼の顔。 先ほどのように額と額を合わせるのではない。 後頭部に添えられた手に力が込められるのが分かった。 『ゃ、』 近付いて来る影に反射的に顔を背け、ほぼ無意識にソファから立ち上がり、窓側へと駆けていた。 ゾクッと震えが全身に行き渡る。 頬には未だ触れられていた感触が残っている。 身体中の血が沸騰しそうだ。 彼と同じものも、そうでないものも全て。 煮え立って沸き立って、蒸発してしまうんじゃないかって位、熱い。 「●●。」 窓ガラスに反射して写る姿。 アタシから数歩離れた位置で足を止めた。 「●●。…嫌、か?」 『っ、』 「俺を拒むか?」 ピアニストの手がきつく握り締められて、白くなっている。 薄い唇は真一文字を描き、堪えるようにそれを噛んだ。 彼の藍色に夜の白が写り込む。 その藍と白が込み上げてくる水分で滲んで、ガンガンと頭の中を、ドクドクと身体中を騒ぎ立てた。 『違…!』 “拒む”なんて有り得ない。 無意識に彼を傷付けてしまった。 アタシの取った行動は、初めて真斗兄を拒絶して、怖がった。 それは紛れもなく本当。 だけど、アタシは、彼の一番近くに誰よりも側にいつだって隣に居たいと願っていたんだ。 足を一歩踏み出して、腕を前に、彼の方へと伸ばして。 見たこともない、男の人のそれでアタシを見詰める真斗に、抱き付いた。 “おかえりなさい”よりも強く。 “大好き”を籠めて。 『ぃ…嫌、じゃない、』 「●●…。」 『…真斗、が、好き。』 少し怖かっただけ。 アイドルの聖川真斗でも、親戚の真斗兄でもない、初めて逢った聖川真斗に。 この関係が変わるのを感じて、瞬時にそれが脳を混乱させただけ。 「…触れても、」 『ぅん…。大丈夫。』 おずおずと背中に真斗の腕が伸ばされて、抱き付いていたアタシの体重を支えるように力が込められる。 きゅっと真斗の首を抱きよせる。 スンと鼻を啜れば、また、石鹸の香りがアタシを抱き留めた。 靴裏が床から離れて、完全に真斗に身体を預けて、そっと膝裏に通った真斗の腕に軽々と持ち上げられた。 ふわふわと身体が浮き動いて、窓の縁に下ろされる。 閉まっているとはいえ少しだけ冷えた外気が、強制的に夢ではないと訴えて来る。 真斗の腕が離れて、その変わりにまた、頬に掌が添えられた。 今度は怖くない。 愛おしい真斗のものだ。 ゆっくりとアタシの顔に真斗の影を作りながら近付いて、目線を上げれば熱の籠った“男の人の目”とかち合う。 前髪を払われて、額にちゅ、と柔らかなものが触れる。 そして目尻に、鼻の頭に、頬に。 雨のように降ってくる。 くすぐったくて、少しだけ恥ずかしくて、クスクスと笑いながら身を捩らせば、“●●”と真斗の聲がアタシを呼ぶ。 少しだけ、ほんの少しだけ上から。 『…、まさと。真斗。』 「そうだ。」 『…真斗。』 「●●。」 そのまま、何度も何度も名前を呼び合って。 何度も何度も引力のように引き寄せられるがままに、口付けを交わした。 ちゅ、と何度も啄んで、離れた瞬間に●●と呼ばれて、好きだと告げられて。 幸せの波が押し寄せては返す。 あぁ、オーストラリアの波も、こんなに穏やかだったのかもしれない。 穏やかで、それでいて溺れてしまう藍色の海。 兄と慕った人を無くしたけれど、こんなにも狂おしく●●と呼んでくれる人が出来ました。 きっとこの恋は必然。 end 20120501 自分の中で結構綺麗に纏まったんじゃないかと思っています。 もうちょっといちゃつかせたかったけど、良くない方向にいきそうなので自重! アンケリク頂いた「聖川真斗、お互い依存」とのことで、もっとベタベタ依存を書いていて、ふと出来上がったものですが、気に入った話になりました。 気に入っていただければ幸いです。 まだ依存度が足りないので結構そこら辺は不完全燃焼。 というかこのリクを頂いたお陰で、最も自分の突き詰めるものが“依存”だと分かりました。 リク有難うございました!! ←一覧へ |