▼remember me








「●●、」



低くて耳あたりの良い聲に呼ばれた気がした。







remember me






午後七時半。
帰宅ラッシュに揉まれながら、
いつもと変わらない車両に乗り、ドアに凭れ掛かかる。
その僅かなスペースに落ち着けば、
先日から読み始めた流行りの推理小説を開いて目線でソレを辿った。


此処から地元の駅に着くまでの約三十分間はこのままだ。
席が空く事も、車内が空く事も滅多に無い。


大勢の人間が乗っているにも関わらず、
嫌に静かな空間にはもう慣れた。
それ程の年月が、学校を卒業してから経った。




望んだ職業に就いたとは言え、
毎日毎日が嫌になってしまう。

何に。

何もかもに、だ。
学生時代は無邪気だったと思う。

誰にも聞こえない様に、小さく静かに溜め息を吐いた。





沢山の人が降りて、そして沢山の人がまた乗ってくる。
そうやって幾つかの駅を過ぎた時。


頁を捲る、そのほんの数秒程度の合間に無意識に上げた眼線。
濃色のスーツやコートやダウンジャケットが溢れかえった魅力の無い海に、
見覚えのある橙色の金糸が見えて、息を飲んだ。



全てが新鮮で眩しかったあの頃に出逢い、
今はもうサヨナラした人。



思わず栞を挟む事も忘れてパタンと手にしていた小説を閉じる。

ドクドクと早鐘のように鳴る鼓動が車内に響き渡る様に煩い。
実際はアタシ一人にしか聞こえていないのだろうけど。
背筋に冷たい汗が流れた気がした。




癖のある口調で低い聲が目的の駅名を告げる。


足が縫い付けられた様に床に張り付き、金縛りにあった様に微動だしなかった身体を動かして、
人の波を縫いながら、煩く叫び扉を閉めて走り出そうとする車体から飛び降りた。



背後でバタンと扉が閉まる。

振り向けはしない。






彼との時間は何よりも美しくて、満たされた時間だった。

物腰の柔らかい聲で●●とアタシを呼ぶ。

彼はアタシをお姫様の様に扱った。
ソレは決して彼の家が財閥だからとかそんな事は関係無かった。

何よりも大事に。
壊れ物を扱うかの様に。
アタシを大切にしてくれたのだ。
生きる世界が違うと肌で解っていても、
彼に落ちていくのはとても簡単。




彼の執事と話をしたのは一度きり。
別離を告げられた。

それっきり。
それっきり神宮寺レンとは逢っていない。


世界は一瞬でモノクロ。
何もかもが嫌になる様な、そんな世界になってしまった。








アスファルトをヒールで鳴らしながら、改札から抜け出した。



そうだ。
彼が居る筈がない。
電車等、乗る必要がないのだ。

最近買った雑誌で彼の活躍を目にした。

こんな所に居る筈がないのだ。



『レン』



行き交う電車の音に掻き消される様に小さな聲で、
久方ぶりの名前を呼んだ。

誰にも聞こえない様に。

吐き出さずにはいられなくて。

もう何年も口にしていなかったその言葉は一度吐き出してしまえばソレまで。
塞き止めていた栓なんてもう無いに等しい。

レン、レン、レン。

逢いたい。



もう何年も前の話じゃないか。
もう今更どうしようもない。
もう忘れた筈だった。

アタシを呼ぶ声も、髪を撫でる指も、繋いだ手も。
アタシだけに向けられた笑顔も、もう今は他の誰かのモノ。
あぁ、有名になった彼だ、この世界中の彼のファンのモノに。

アタシの為に残されたモノは何一つ無い。


自身を抱きしめる様に交差した腕に手に力を込める。
嫌に寒い。


足早に行き交う人達を避けて、蹲る。
足が動いてくれない。








「…●●」




幻聴かと思った。
まさか、と思った。

ゆっくりと視界を上げれば、逢いたくてたまらなかった人。

ふわりと香る香水。
黒のロングコートを翻して、サングラスを外す。
一つ一つの所作が軽やかで、指の先まで品がある。

風に靡く艶やかな金糸。



『嘘…』



間違いない。

間違える筈がない。


レンだ。

髪が少し短くなって、背はまた一段と高くなった。
元々大人びていた彼だが、更に落ち着いた雰囲気を醸し出している。



「やっと見つけた。迎えに、来たんだ」

『レン、』



レン、レン、レン。

譫言の様に呟けば、差し出される指に引かれる。
視界を埋め尽くす橙色の金糸。
柔らかいソレがアタシの頬を撫で、唇に降ってくる雨は酷く冷たい。



「ねぇ、オレを捨てないでよ」

『…いつから此処にいたの』

「そんな事はどうだって良いじゃないか」



冷え切った彼の体温。
やっぱり電車になんか乗っている筈がなかった。

何かが見せたほんの小さな予知夢だったのか。
ただの見間違いだったのか。

そんな事はどうだって良い。


つまりはただ、鮮やかな世界が戻って来たということだ。




「そばにいてよ」



いつかぶりに重ねた手からレンの体温がじんわりと伝わってくる。

堪え切れずに零れた雫を一つ一つ掬い上げる唇。
空いた手が、いつの間にか伸びた髪を梳く。

耳元で●●と名前を呼ばれる。


全てが返って来た。
全てが此処にある。



『当り前じゃない。ずっと変わらず、』



“レンが好きだったよ”



繋いだ指に軽く口づけを落して。
贈った言葉を嬉しそうに受け取ったレンが小さく囁いた。



「オレも」






(ずっと覚えていた聲)

end

20111231


電車の中をちょっと書いてみようと思って書き始めたお話なのですが、
たまに知った人に似た他人にドキリとするので、
そんな実体験?とまではいきませんが。
見付けるのはすごく苦手なので、見付けられる場合の方が多いんですが。

今年最後の更新でした。
来年はもう少し精進したいと思ってます。
書きたい事に頭が付いて行っていない事が多すぎるので。

有難うございました。


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