▼人魚姫のメランコリー








「俺に音楽の素晴らしさを教えてくれたのは、お前だ。」





レッスンルームから微かに洩れたピアノの音と真斗の声。


その瞬間、ドアノブを掴もうとした手が、
声をかけようとした喉が、
自分の物じゃないように全く機能しなかった。











人魚姫のメランコリー














『真斗、明日の夜って空いてる?』

「何かあるのか、●●」




暖かな陽射しの中、学園の一角に設置されたベンチ。

少し小高い位置にあるこの場所は学園の広大な敷地を眺めることができる。

そこで一人。
好物のメロンパンを片手に、楽譜を眺めている彼、聖川真斗に声をかけた。





『父が、久しぶりに食事に行かないかって。』

「義父さんが?」



“義父さん”
アタシの父をそう真斗が呼ぶ。

それは聖川財閥と▲▲財閥の婚約が正式に決定した中等部三年の春から。





パーティー会場で見掛ける度、
聖川のおじ様に連れられて▲▲の家を訪れる度、
●●って呼んでくれる度。

声を聞けば一瞬で全身の血が沸騰して、
目が合えば涙が溢れそうになる位、



ずっとずっと好きだった。






そんな真斗との婚約。
嬉しくない筈がない。





『うん…空いてればだけど。』

「大丈夫だ。」

『…わかった、伝えておくわ。』






父は真斗との婚約が決まってからはアタシの進路に口出すことは無くなった。

商談の駒としては最高の出来だったんだと思う。



そのお陰もあって元々好きだった歌の道へと、
真斗と同じ学校へと進学することが出来た。









でもそんな死んでしまいそうな程幸福で溢れた日々に、
先日耳にした言葉が突き刺さる。


押し潰されそうな胸の痛みに息が出来ない。


何も知らずに真斗の隣にいた自分が馬鹿馬鹿しくて惨めに思えた。







『、じゃあ後でね…』

「…●●?」




真斗の隣に居る事も、話しかける事も、
今では一番勇気が要ることになっていた。

後ろから響く声は聞こえないふり。





逃げるように校舎へ足を進めた。









“まるで人魚姫の様だな”




いつかのX'masパーティで歌を披露した時にくれた言葉。

真斗がくれた大事な言葉に負けないように、歌を学んだけれど。





陸に上がってしまった人魚は所詮、空気に喘いで泡沫の夢と消える運命なのだ。














.












「少し歩かないか。」





都内有数の5つ星レストランで父達との食事会も滞りなく終わり、
久しぶりに逢った執事の車で学園へと辿り着いた。

真斗が歩こうと言ってきたのは、車を降りて寮へと向かう途中だった。







降ってきそうな位の満天の夜空の下、

レース地のワンピースに身を包んでめかし込んでいる筈なのに。


気分なんて真っ黒に渦巻いて、どしゃ降りの日のように憂鬱で。





「●●?体調でも悪いのか?」

『え?あ、大丈夫。』




あれからずっと過る悪い予感。






もしかしたら。

もしかしたら、アタシとの婚約を破棄したいんじゃないかって。


あの子と違って作曲の才能なんてない。
ましてや自分よりも相手の事を重んじる性格も、
誰かを笑顔にさせるような日溜まりの笑顔も、
アタシは持ってはいない。






「あまり食べていなかったな。」

『少し寝不足なだけだよ、大丈夫。』

「しかし、」

『ホントに大丈夫だってばっ、』




足を止めて熱を計るように額へと伸ばされた掌。

目が見れなくて、触れられたら今まで堪えていた涙が溢れる気がして。

無意識に一歩後ずさった。





煩わしているのが解る。





「先日から何か言いたい事でもあるのか?」

『っ!』




捕まれた腕。

合わされた瞳。

強い灯の灯った眼。






「避けているだろ、俺を。」

『…さ、けて、ない。』





ドロドロの真っ黒なものが身体中に充満する。

頭がおかしくなりそう。

息が出来ない。








「何年の付き合いだと思っている。
お前の考えていることは容易に想像がつく。」

『真斗、には…解んないでしょ!』




思いきり手を、振り払った。





「…七海春歌との会話でも聞いたか。」





“音楽の素晴らしさを教えてくれたのは、お前だ”



あの日の真斗の声がリフレイン。











『…破談して。』





アタシなんかただのお荷物で、

おじ様に言われたから仕方なく一緒に居てくれているのなら、

真斗の声で“要らない”って言われる前にサヨナラしなくちゃ。




貴方から、なんて耐えられない。






『もうほっといて!』





こんなにも醜い気持ち。

泡になって、

消えたい。





「●●」




力強く腕を掴まれ、ソレと共に引き寄せられた腰。

がっちりと抱き締められた。






『や、だ。嫌、要らないって、』




言わないで。

両手で耳を塞いだ。




真斗の声で、要らないって言わないで。





「●●、何を勘違いしている。」





頬を両手でそっと覆い、ゆっくりと目を合わせれば、
堪えきれなかった涙が頬伝う。


柔らかく笑う真斗の顔が見えた。


長い付き合いの中でこんなにも優しい目は見たことがない。




少し屈んできたと思えば、頬の水滴を唇で掬い上げられ。

彼のそんな行動に肩が跳ねた。





『ちょ、ま、さと!?』

「誰の為にここまでピアノを練習してきたと思ってる。
お前の歌に合わせる為に決まっているだろう。」





背中に回る腕が、
頬に触れる胸が、
降ってくる真斗の声が。

酷く心地いい。


黒い渦を浄化する。



「確かに進路を決めたきっかけは七海春歌だ。」




いつかの雪の日。
進路を自分で決めたと伝えられた。

おじ様の意向とは違う進路。


音楽の道へ進みたいと。
小さな頃から習っていたピアノとは別に歌を学び出した。





「しかし、共に歌いたいと思わせたのはお前だ、●●。」




脳に直接真斗の声が響くように、
耳元で囁く、その声に溺れる。



うまく息が出来ないけど。




真斗の腕の中なら溺れても良い。


そんな気がした。





『真斗の隣に、居ても良い?』

「あぁ、俺の婚約者だろう?」





震える唇で吐き出した言葉は彼のテノールに包まれた。


日溜まりにはなれないけれど、
貴方のために紡ぐ歌。



貴方の隣で歌わせて。




泡になって消えない歌を。




(泡にならなかった人魚姫)


20111008

end



どうにかこじつけてみた…?
聖川フィアンセネタまだまだいける気がする。

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