カーテンの開け放たれた窓から差し込む、高く昇った太陽の光で目が覚めた。蝉が鳴いている。クーラーが効き過ぎて寒い。喉もいがいがする。どうやら、いつの間にか眠っていたみたいだ。
 こんなにも明るい時間に起きるのはいつ以来だろう。思い出そうとして、やめた。自分で傷をえぐる趣味はない。
 おかしな体制で眠っていたせいで、身体中のあちこちが痛む。凝り固まった筋肉を軽く伸びをして解してから時計を確認した。十一時二十七分。
 この時間は、家には誰もいない。みんな会社か大学に出発済みだ。
 部屋のドアを開けると、昨日母さんが持って来た筈の晩御飯は既になかった。手のつけられなかったそれを見て、母さんはどう思っただろう。胸が軋んだ。
 リビングダイニングにはやはり(というか、いたら大変困るのだけれど)人は誰もいない。ダイニングのテーブルの上に、冷蔵庫の中にサンドイッチがある旨の書き残しがあった。
 とりあえず、部屋の冷蔵庫に麦茶の補給とサンドイッチの移動、トイレ、風呂を済ませた。それから、ありがたくサンドイッチをいただく。それにはおれの好きなトマトがはみ出ない程度にたっぷりと挟まれていた。母さんごめん。ありがとう。
 落ち込んで、泣いて、見捨てて。それでもまだ、おれはこうやって日常生活を刻んでいる。
 ――卑怯だ。
 結局、おれは誰かに構ってもらいたいだけなんだろう。慰めてもらって、褒めてもらって、愛してもらいたいだけなんだろう。
 ――ずるい。環境も可能性もあったのに。せっかくのそれをかなぐり捨てて、そのうえで愛してもらいたい?
 ――おれは、本当に頑張っていたのだろうか。本当は、もっとなにかが出来たんじゃあないのか。
 しばらくぐるぐると考えて、やめた。考えていても意味がないと思ったから。
 いや、違う。おれはやめたんじゃない。逃げたんだ。おれはおれから逃げたんだ。
 おれを追い詰めるおれの声が心臓を握る。やめてくれ。もうゆるしてくれ。
 気を紛らわしたくて、パソコンのスイッチを入れた。ヘッドフォンを耳に当て、大音量で音楽も流す。
 あてもなくネットを漂った。時間は案外簡単に過ぎていくものだ。麦茶を飲むときとトイレに行くとき、それから母さんが持って来る料理を食べるとき以外は特に動くこともなかった。ろくに睡眠もとってない。疲労感はあるし、目も肩も腰も疲れてしまったけれど、自分をいじめるのが楽しかった。

 そんな生活を何日続けたろう。
 さすがに眠気を耐え切れなくなってきて、少しだけ眠ろうかとヘッドフォンを外した時だった。
 きぃ、と錆び付いたドアが開く音がした。遠慮がちな、でも開ける意志を持ったその音を作るのは、一人しかいない。
 恐々後ろを振り返ると、思った通りの人物が、相田一輝がそこにいた。

 ――なんで。嘘だ。どうして。

 彼はおれの顔をじっと見つめた。おじゃましますと呟いて、ドアを閉めると、一人固まるおれの隣に座って、おれの左手をとった。両手で、ぎゅっと包み込まれる。彼がおれに触るのは初めてだった。驚いて、体が跳ねる。
「なんか、あったの」
「……なん、か、って」
 彼は真剣な眼をして、今度は言葉を詰まらせるおれの頬に右手を当てた。それから親指でやさしく、おれの目の下をなぞる。
「隈、できてるし、顔色もよくない」
「…………」
「なんかあったなら、言いな」
「…………」
「ちゃんと、聞いてやるから」
 彼の手は、とてもあたたかだった。頬を擦る右手も、おれの手を握っている左手も。
 他人と触れ合う経験なんて、殆どなかった。血が通っている人間は、こんなにもあたたかいのか。
 相変わらず彼の視線はおれに注がれていた。初めて会った時と変わらない優しい目だ。体から力が抜けていくのがわかった。
 頬に当てられた手の上に、おれの手を重ねてみる。ごつごつとしていて、おれよりも少しだけ大きな手。
「……おれ、こわく、て」
「怖い?」
「自分、が、なんにもうまく、出来ないこと、が」
「うん」
「……情け、なくて」
「……うん」
「お、れ」
 彼は、じっとおれの言葉を待ってくれた。おれは、自分の思っていることを思いつくまま話した。
 人と話すのが苦手なこと、人の視線が怖いこと、自分は欠陥品だということ、本当はおれも普通になりたいこと。
 時系列も文法もぐちゃぐちゃなそれを、彼はおれの手を握ったまま、遮ることもなく聞いてくれた。とても、とても嬉しかった。ぼろぼろ涙がこぼれた。

 彼は一通り話し終えたおれの手を離して、代わりにそれを頭の上にのせた。労るように撫でられて、ほっと一息つくことができた。そして、どこからか取り出したハンカチをおれに手渡して言った。
「使って」
 きっと、紳士というのはこういう男のことを言うんだろう。おれはこくんと頷いて、熱をもつ両目にそれを当てた。きっと今、おれは見るにたえない顔をしているんだろう。そう思うと自然と視線が下がった。
 また顔をあげなくなったおれに、彼はまるで独り言のように、ぽつぽつと言葉をよこした。
「玲二は、さ。頑張りすぎなんだよ」
「人には向き不向きがあるんだ。玲二のお父さんやお兄さんには向いてることでも、玲二に出来ないことはあるだろうし、その逆もあると思うよ」
「玲二は優しいよ、少なくとも俺は、優しいひとだと思うよ」
「おまえは欠陥品なんかじゃない。誰が何を言っても、お前は俺にとって大事な友達だ。俺の友達を悪く言うのは、例えお前でもゆるさない」
「もっとゆったりやればいいよ。父さんや兄さんのようになる必要もない。もっと力抜いて、玲二のペースでやればいい」
 子守唄のようだと思った。彼が言っている言葉の意味が、なぜだかおれには理解しがたかったけれど、彼が、おれのことをちゃんと好いてくれているらしいことがわかった。そしてそれはおれの妄想ではないのだ。
 荒んだ気持ちが消えて、なんだかうとうとしてきた。そうだった、おれ、眠かったんだ。そしたら、彼が来て、びっくりして……、あれ、彼はどうして家に来たんだろうか。
「……ねむい? 寝てもいいよ」
 彼は、本当におれのことをよく見ているみたいだ。おれはこっくりと頷いて、やって来る睡魔に身を任せた。心地好い流れだ。もう、いいか。聞きたいことは、また今度にしよう。
「おやすみ」
 微笑む彼の姿が、瞼の裏に浮かんだ気がした。




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