彼は心底驚いたみたいだった。えっと出した声は裏返って、それからまじまじとおれを見た。
「……入って、いいの?」
 不快感はまるでないけれど、やっぱり視線が痛くて合わせていた目を思わず逸らしてしまった。
「……入りたくないなら、いいけど」
「はっ、入ります! 入ります!」
 小さく呟くと、慌てて部屋の中に入ってきたのがおかしかった。彼は、なんだか申し訳なさそうにおれから少し離れて座って、一緒に通学用であろう容量の大きそうなスポーツバッグも下ろした。
 おれはミニテーブルからパソコンを退けて、代わりに冷蔵庫から取り出した冷えたグラスを二つ乗せ、麦茶を注いだ。そのうちの一つを彼のほうへと滑らせる。
「ん」
「あ、どうもありがとう」
 彼の手がグラスにのびるのを視界の端に映しつつ、おれはじっと麦茶の水面を見つめていた。
 こういう時に何を話せばいいのかは、コミュ障のおれにはわからなかった。早くも部屋に入れたことを後悔し始めてさえいた。やっぱり、おれは人と関わるのに向いてないんだろう。部屋には、ぎこちないぎしぎしした空気が流れていた。

「あっ」
 突然彼が声をあげた。おれの肩がびくりとみっともなく揺れる。がさごそとスポーツバッグの中を引っ掻き回す音がして、ミニテーブルの上になかなかに分厚いクリアファイルが置かれた。
「これ、担任から。高見沢くんが受け取ってない授業プリントとか書類とか、いろいろ入ってる」
「あ、ありがとう」
「いえいえー。あっ、ねぇ、名前で読んでもいいかな。玲二って。駄目?」
 突然の提案に、おれは内心驚いた。まさか彼がおれの名前を知っているとは、覚えていてくれているとは思わなかった。顔は見ていないから確信はないけれど、彼は相変わらずにこにこと笑っているような気がした。
「……いい、よ」
「ほんとに? よかった、断られたらどうしようかと思った。あ、玲二もおれのことは好きに呼んでくれていいから」
「う、うん」
 彼はおれとは違って、おしゃべり上手だった。担任がどうだ、授業がどうだ、テストがどうだ、と、先ほどまでの空気が嘘のように、ほとんど詰まることもなく現状報告を続けた。
 学校に来いよとは一言も言わなかったし、そういう流れや雰囲気を感じさせることもなかった。おれはただ、麦茶を見ながら出来損ないの相槌をうっているだけでよかった。
 ただずっと彼の話を聞いていただけなのに、どうしてだかとても楽しかった。
 気が付けばもう随分と長い時間が経っていたみたいだった。彼は腕時計を見て、やばいと声を漏らした。
「もうこんな時間か。そろそろ帰らないと……、あっ」
 本日何度目かの小さな声をあげて、また彼はスポーツバッグをごそごそと探りはじめた。
 中から取り出したのは小さなメモ。そして、それをずっと置きっぱなしだったクリアファイルの上にちょこんと乗せた。指を指しながら言う。
「これ、俺のメルアドと電話番号。よかったら連絡ちょーだい」
「え」
「迷惑だったら処分してくれて構わないから。……また、遊びに来てもいいかな?」
 やはり、彼の顔を見ることは出来なかった。それでもなんとか頷いて、了解の意志を示すと、彼が喜んだ気配がした。
 表情はわからなくても、空気はわかる。おれの返事が彼を喜ばせたなら、おれも嬉しいと思った。

「じゃあ、また遊びに来るから」
「……うん」
「またな」
 彼は立ち上がって、スポーツバッグを拾って、そっと部屋を開けて出て行った。
 人と話す時は目と目を合わせて。そんな世間の常識をまっとう出来たのは、布団から顔をだしてすぐのたった数秒間だけだったけれど。そのことを考えると、後悔ばかりが生まれてくるけれど。今も昔も、自分の振る舞いには後悔しかないけれど。

 ――本当に、また来てくれるだろうか。

 行いへの後悔と、来るかもわからない次回への不安だらけだけど、その一日は確かに、おれにとって鮮やかな一日になったのだ。
 もう一度、ミニテーブルの上のメモに目をやって、そして長い間触ってもいなかった携帯電話の捜索を始めるのだった。




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