自転車をこいで15分と少し。今までに何度も見た、玲二の家に到着した。いや、今はもうここに彼はいないのか。
 適当に自転車を止めてから、高鳴る心臓をなんとか抑えつけて、震える指でインターフォンを押した。ピンポン、と音が家の中に響く。少しして、ドアが開いた。
 久々に見る裕香さんは、大きく目を見開いた。俺は頭を下げた。ドアが広げられる気配がして、顔をあげる。
「入って?」
 裕香さんは力無く微笑んだ。


 かつて、玲二のものだったその部屋はがらんとしていた。最後に来た時にはあった段ボールももうない。
「あの子、家を出る前に言ったの。誰にも居場所を教えないで、って。わがままなんてほとんど言わない子だったから、最後のお願いぐらい聞いてやりたくて」
 裕香さんと視線を合わせた。疲れた顔。玲二と目元がそっくりだ、なんて呑気なことを考えた。
「だから、すみれちゃんにも話さなかった。……でも、本当は、誰かに知ってて欲しかった」
 そういって、裕香さんは部屋を出た。ちらりとこちらを向いた目が、俺についてこいと言っていた。後を追う。
「私には、夫がいて、長男がいて、友人がいて、職場にも仲のいい人がいる。でも、あの子はきっと、もう誰と話すことも関わりを持つこともないんだろうと、しないんだろう思うと、どうしてもやりきれなかった。自分でこういう結果を作っておいて、馬鹿みたいな話だけれど」
 そう話しながら裕香さんは階段を下って、階段下の収納スペースを開いた。中は、引き出しでしっかり整理されていた。裕香さんは一番下の、小さな引き出しからなんの飾りもない鍵を取り出すと、両手でそれを俺に差し出した。
「こんなことを頼むのは、重いかもしれないけど、どうか、玲二をよろしくお願いします」
 裕香さんが深く頭を下げた。じん、と目頭が熱くなるのを感じながら、俺は鍵を受け取った。
 裕香さんは顔をゆっくりとあげて言った。
「合鍵はまだあるから、それは返さなくていいから。……玲二に、お願い聞いてやれなくてごめんって言っておいてくれる?」
「必ず、伝えます」
 冷たい鍵をぎゅっと握った。もう、絶対に離さない。
 それから俺は裕香さんに玲二の住んでいる場所を口頭で聞いた。ここからそう遠くない。昼過ぎには到着しそうな距離だった。
「裕香さん、本当に、本当にありがとうございました」
 玄関まで見送りに来た裕香さんに、改めてお礼を言う。
「私こそ。……玲二と出会ってくれてありがとう」
 そういってはかなげに笑う顔が、あまりに玲二に似ていたから、俺はいてもたってもいられなくなって、足早に高見沢宅を後にした。


 わりと小綺麗な、アパートの一室。標識に使われている紙の上には遠慮がちに書かれた彼の名字がのっかっていた。
 会える。玲二に、会える。
 そう思うだけで気持ちがどんどん膨らんで息苦しくなる。俺、ほんと玲二が好きなんだな。
 インターホンに指をのばそうとして、少し考えてやめた。万が一、逃げられてしまった時のことを考えると怖くなったからだ。申し訳なく思いつつ、裕香さんからもらった合鍵で扉を開く。
 カーテンが閉め切られているようで、中は薄暗い。お邪魔します、と小さく呟いて玄関に足を踏み入れた。
 人が動いている気配はなかった。家に入ってすぐに左に見えるキッチンスペースにはカップラーメンの残骸が積み重ねられていて、目の前に見える部屋の中も衣類やらなにやらで散らかっているようだった。
 恐る恐る靴を脱いで、一歩。足元が小さくぎしりと鳴った。
 部屋の中を覗く。真ん中に置かれた見覚えのあるテーブルの上には、彼が愛用していたノートパソコンが畳んで置いてある。奥のカーテンの隙間から漏れる光がそれを照らしていた。左側にはクローゼットや本棚が並んでいるが、あまり使われた形跡はない。
 部屋の右側にあるベッドに、大きな塊が見えた。散らばる物を踏まないようにしながら、それに近付く。
 塊は玲二だった。毛布を首元までたくしあげて、丸くなって眠っていた。
 彼の寝顔を見るのは二度目だった。初めて見た時と同種で、それよりももっと大きな感情が顔をだす。
 好きだ。どうしたって、玲二が好きだ。
 そっと髪に触れた。随分と伸びたそれをかきあげるように優しく撫でる。
 彼は小さく身じろいで、うっすらと目を開いた。それから視界の端に俺を捉えて、それから掠れた声で漏らした。
「……かず、き」
 夢と現をさまよっているような、ぼんやりした声だ。俺は髪を撫でるのを止めて、額に手の平を置いた。暖かい。
「れいじ……」
「…………あぁ、そっか、ゆめか。かずきがいるわけ、ないもんな」
 頭が全然回っていないみたいだ。ふわふわした口調が、考えたことをそのまま紡ぐ。
「ゆめでも、あえて、うれしいなあ」
 ふにゃんと笑って、彼は毛布から出した手で俺の服の裾をつまんだ。
「かずき、」
「……なに?」
 額から手を離して、首の下に腕をいれる。そのままゆっくりと彼を起こした。
「あたま、なでてくれる? おれのこと、ほめてくれる?」
 俺の服を握ったまま、じっと縋るような目で請う。どこか辛さを帯びたそれに涙が出そうになった。
「玲二、お疲れ。よく頑張った。よく頑張ったよ」
 髪を梳くように頭を撫でる。間違っても傷つけないように、優しく、丁寧に。途端、ぽろぽろと彼の頬を涙が滑った。
「かずき、すき。だいすき」
 そう言って、玲二は俺の腰に腕をまわした。
 ――これが、お前の本音だよな。自惚れても、いいんだな。
 胸がいっぱいになって、嬉しくて吐きそうになりながら、俺もたまらず彼の頭を抱え込む。ぎゅうっと抱き着いてくる彼が苦しくないように加減をしながら、なんて幸せなんだろうと考えた。玲二の涙が、俺の服を濡らす。
「俺も好きだ、……大好きだ」
「いいゆめ、だなぁ」
「……夢なんかじゃ、ない。玲二、好きだ」
 腕の拘束を緩めて、少し屈んで玲二の顔を覗く。涙を指で拭ってやると、ぽろぽろ涙で肩を濡らしていた玲二の身体が強張った。
「……どうして、ここに」
 さぁ、と玲二の顔が青ざめた。涙も引っ込んで、信じられないものを見たように後ずさる。
「ごめん。忘れるなんてできなかった。……好きです。ごめんなさい。俺と、付き合ってください」
 逃げようとする玲二の左手をとって、ぎゅっと両手で包んだ。両膝を床について、見上げるように玲二の顔を覗く。
 玲二はぶんぶんと首を横に振った。
「……駄目、忘れて、全部」
「忘れられない。お前のことも、俺の気持ちも、……今、お前が俺を好きだって言ったことも、忘れられるわけない。なんで、忘れなきゃいけないんだ」
「君の、未来を壊したくない、君の重荷になりたくない、君に嫌われたくない、君に、君に、おれは」
 辛そうな顔で、必死に話す彼は痛々しかった。
 違うんだ。俺は、そんな顔をさせるために来たんじゃないんだ。
「壊されない。重荷じゃない。嫌わない。玲二を支えたい。玲二に支えられたい。玲二のいない未来なんていらない。玲二は? 玲二は、本当に俺と一緒にいたくない? 俺のこと、好きじゃない?」
 しっかり目を合わせて問う。握った左手に力を込めた。冷たくなった彼の手は、まだ温まっていなかった。
 長い沈黙が場を支配した。手を握ったまま、目を合わせたまま、じっと彼を待つ。
「……き」
 見つめている彼の目が、じんわりと水気を帯びた。
「…………すき、おれは、かずきが、すき」
 ぼろぼろとまた泣き始めた玲二の左手を引き寄せる。俺にもたれ掛かって来た彼をもう一度抱きしめた。
「ごめん、ごめんなさい。好きです、一輝が好き、ほんとは失いたくなかった、ほんとは、おれはずっと、一輝と一緒にいたかった」
 嗚咽をこぼしながら、決壊したように言葉を紡ぐ玲二の背を撫でる。
「俺こそ、逃げてごめん。目を逸らしてごめん。俺も玲二が好きだ。もう逃げないから。浮気なんて絶対しないから。……俺と、付き合って欲しい」
 回された腕の力が強くなる。玲二が何度も縦に首を振った。




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