懐かしい名前から、便りが届いた。昔、まだわたしが何にも知らなかった頃、よく遊んでもらった近所のお兄さんだ。ワンポイントのついた白いシンプルな封筒の上に、彼の名前がおどっていた。

 彼には、わたしたち家族がこの街に移り住んだ頃から、彼等家族が他所の街に引っ越すまでのニ、三年の間、仲良くしてもらっていた。わたしよりいくつか年上だった彼は、お転婆だったわたしが危ない目にあわないように見守ってくれていたようにも思う。とにかくやさしいひとだったということは、よく覚えている。
 ここ数年は年賀状のやり取りもなくなっていたから、てっきりもう忘れられたものだと思っていたけれど。
 わたしは丁寧に糊付けされた封筒をあけ、中から便箋を取り出した。これまたシンプルなそれに綴られていたのは、彼の手書きの、優しい文字たちだった。
 挨拶から始まって、簡単な近況報告。働いていた会社を辞めて、喫茶店をこの辺りで始める旨。この手紙は、その報告と招待を兼ねているようだった。
 開店するのは、今週の土曜日。スケジュール帳を確認すると、その日はちょうどなんの予定もない休日だったから、久しぶりに会って話をしてみたいと思った。
 心の奥底に追いやられていた記憶たちが、自然と胸の鼓動を大きくする。抑えきれない頬のゆるみを隠すために、返信用の封筒を探した。



 憂鬱だった平日も立ち去って、ようやくやってきた約束の土曜日。今日の服装は、新しくおろしたロングスカートとTシャツ。春物のジャケットにも袖を通した。もう桜咲く季節ははじまっている。
 わたしは、手紙に同封されていた地図を片手にさまよっていた。中学時代に通っていた、見慣れた通学路から道を折れて、あまり使ったことのない道に入る。丁寧に描かれた地図の終着点につくまでは、少し時間がかかった。

 その店は、洋風のおしゃれな外観をしていた。玄関脇の花壇には色とりどりの花が植えられている。手入れもしっかり行き届いているようだ。
 玄関ドアには、"open"と飾り文字が貼付けられたプレートが揺れていた。取っ手を押すと、カランカランと小洒落た音が鳴ってドアが開く。
 店内には観葉植物があちこちに飾られていた。店内に流れるBGMは落ち着いたクラシックミュージック。明るい橙の照明がいかにもな雰囲気を醸し出していた。

「いらっしゃいませ」

 こちらにふんわりとした笑みを浮かべたのは、緑色の真新しいエプロンを付けた青年。店内にはちらほらとお客さんがいて、カウンターの中にも二、三人、彼と同じエプロンを付けた人がいる。
 さっと従業員の顔を見渡した。……多分、最初に声をかけてくれた彼が、

「……もしかして加奈子ちゃん?」
「あっ、はい。お久しぶりです」
「やっぱり。かわいくなったね」

 そう言って楽しそうにわらったのは、やっぱり思い出の兄さんだった。
 全体的にしゅっと引き締まっていて、痩せているけれど貧弱な印象はない。茶色に染められた髪とか、高くなった身長とか、いろいろと、当たり前だけれど、昔とは様子が変わっていた。それでもどことなく残っている、彼の気配みたいなものが、わたしのなかの懐かしさを包み込む。

「かわいくなったなんて、お世辞でも嬉しい」
「はは、お世辞じゃないってば」
「兄さんもかっこよくなったけど……、ふふふ、なんか中身は相変わらずだね」
「そうかな」
「うん」

 他愛のない会話がクラシックと混ざって、心地好く流れていく。自然と笑みがこぼれた。
 こちらへどうぞ、と案内されたのはカウンター席。種類はよくわからないけれど、兄さんのおすすめらしい紅茶と、学生のお財布にもやさしい安めのケーキを注文する。ふわりと香る、甘い匂い。
 ケーキも、兄さんがサービスしてくれたサンドイッチも、すっかり平らげてから、紅茶をおかわりした。流石だ、店を開くだけあって美味しい。

「どうだった?」
「美味しかったよ。また来てもいいかな?」
「もちろん。今度は彼氏とでも一緒においで」
「そんなやつはいーまーせーんー」
「あ、ごめんごめん」
「もー!」

 謝りながらもくすくすと声を漏らす兄さんに、わたしも笑いながら怒った。ほんとうに懐かしい。昔も、よくこうやってからかわれた。
 思い出に浸っていると、兄さんが唐突に切り出した。

「正直ね、来ないと思ってた」
「……え?」
「手紙出すのもだいぶ悩んだんだよ。長い間、ほとんど連絡とってなかったし。宣伝の為だけに出すみたいで、気が引けてたんだけど、うん、出してよかった」

 兄さんは、カウンターの中で少し俯きながらも、わたしのよく知っている表情で言葉を紡いだ。

「この土地に店を出そうって思った時に、君のことが思い浮かんだんだ。なんでかは、わかんないけど」

 ありがとう。
 兄さんはそう呟いてから、いつの間にか空になっていたティーカップを指差した。

「おかわりは?」
「うーん……、やめとく。まだ課題終わってないのに、居座っちゃいそう。持って来ればよかったな」
「そう」

 わたしは席をたって、かばんを肩にかけた。少し去るのが惜しい気がするけど、こういうのは引き際が肝心なのだ。また、いつでも来ればいいし。

「これからもよろしくね」
「もちろん。あ、またサンドイッチ奢ってね」
「それは気が向いたら、ということで」

 ドアの取っ手を引くと、甘いケーキの匂いは吹き飛んで、春の匂いがわたしを包んだ。
 にこにこ笑いながら手を振る兄さんに、わたしも小さく手を振り返す。

「じゃあ、また来ます」
「またのご来店を、お待ちしております」


:) God bless you!さま提出




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