「帰りたくない……」
「なら僕のところへ来ればいい!」
明朗な声をあげた自称神を名乗る探偵は、眩暈坂を軽やかな足どりで降りていく。きっとあの人が苦手なのは自身の父親と、朝だけなのだ。
そんなあの人と違い、私には苦手なものが沢山ある。一つ目は、説教をする仏頂面の古書肆。説教を始めたら無駄に長い。そして何を言っているのか解らない。私には難し過ぎるのだ。
二つ目は、端整な見た目とは丸っきり掛け離れた性格の探偵である。今目の前ではしゃいでいるのがその探偵だ。
「榎さん家行くぐらいなら、家帰ります」
「ならなんで帰りたくないなんて言ったんだ!?」
「それは外が寒いからです」
三つ目に、私は寒さに弱い。古書肆の家から出て来た直後、寒さに背筋が鳥肌を立てたほどだ。こんな思いをするぐらいなら、無理にでも居座っておけばよかったかもしれない。
そうすれば、優しくて美人な千鶴子さんの手料理が頂けただろう。
「しくじった」
「声に色々出ているぞ、この間抜けめ。京極のところで食べるならうちでも変わらんじゃないか」
「変わりますよ。千鶴子さんがいません。これは大問題です」
榎木津探偵はこの主張が気に食わないらしく、眉を寄せる。
「榎さんと益田さんと和寅さん、何が悲しくて男ばかりの中で食事しなくちゃならないんですか。花がありませんよ花が」
言葉にしたらした分だけ自分の家に帰ろうという決意じみたものが確かな形を作りはじめる。
「花ならここにいるじゃないか」
「はい?」
ぴたっと足を止めた榎さんは腰に手をつき、胸を張った。私にはその意図を汲み取る頭の良さはない。きっとあの古書肆なら分かったんだろうが。
「花屋さんの花ですませよう、だなんて手には乗りませんからね」
溜息混じりに呟き、まだ歩き出しそうにない榎さんの横を通り過ぎようとした矢先。
「何を言ってるんだ。花というのは君のことだ!」
進もうと出した右足が、地面を踏むことなく宙で行き場をなくした。そして、左腕は捕まった。身動きが取れなくなったのと同時、思わぬ発言に私は鯉のように口をパクパクとさせるしかなかった。
「へ?あ、ちょ……えの、さん?何を言って」
段々と顔に熱が集中していくのがわかる。こういうことを言われ慣れていない為、どう反応していいかが解らないのだ。
榎さんはそんな私の反応に満足げに笑って、掴んでいた左腕を離したかと思えば手を絡め取られる。
驚きが覚めやらぬ中、榎さんを見ればただただ無邪気に笑って
「こうすれば寒くないだろう」
ぎゅっと強く握り締められた左手が、無意識に脈を打つ。
「ささっ、寒くはないかもしれませんが……!私の精神が崩壊しますっ」
精一杯の抵抗だったが、榎さんはそれを全く気にしない。
繋がるテノヒラ
(お帰りなさい……ってどうかしたんですかい、ひふみさん)
(和寅鍋の用意だ!)
(はい?帰ってくるなりいきなりなんですか)
(もうマジ無理……っ)
(何を言ってるんだ!早く鍋を食べさせないとひふみが死んでしまうッ)
(はいぃ?)