緑赤 | ナノ


 アパショナータを君に捧ぐ



 音楽室の前を通ると、ゆったりとしたテンポの物悲し気なピアノの音が少しだけ漏れ出していた。何処かで聞いた曲だなと思い、しばし足を止め、そのメロディに耳を傾けると小学生の頃に母に連れられていった病院の診察室で掛かっていた曲だと気付いた。確か曲名は……――。

「……ジムノペディ」

 思わず曲名を声に出すと、オレの声が奏者の耳に届いたのかピタリと演奏が止んだ。……済まない事をしたな。気持ちよく演奏していただろうに。謝罪しようと音楽室の扉を開けて声を掛けようとしたが、それは叶わなかった。謝罪よりも前に、ピアノの前に座る彼の名前が出てきたからだ。

「緑間……」
「……赤司か」

 ぽつりと漏らした自分の名前に反応したのか、こちらをちらりと見てオレの名前を呼ぶとまたピアノに目線を戻した。続きを弾くつもりなのだろうか。しかし、緑間にこんな特技があったとは驚きだ。思い返してみれば彼はクラシックを良く聞いていると言っていたし、指も長いから幼い頃からピアノに触れていたのかもしれない。

「……聞きたいなら扉を閉めて、席に着くのだよ」
「――なら、有難く聞かせて頂こうかな」

 音楽室に足を踏み入れ、音を立てないように閉める。そして窓際から三番目の一列目の席に座ると、緑間の横顔が目に入った。

「何かリクエストはあるか?」
「おや、聞いてくれるのか? 今日の緑間は随分とサービス精神旺盛だね」
「茶化すな。別に……、ただの口止め料なのだよ」
「へぇ、口止め?」
「……そうだ。リクエストは何でも受け付けるが、誰にも漏らすな」
「口止めする事じゃないと思うけれど……まぁ、お前がそう言うなら誰にも言わないでおこう」

 オレの言葉に満足したのか、緑間はピアノに向き直り目線だけをこちらに寄越してリクエストを促してきた。さて、何をリクエストしよう。俺もクラシック曲はたまに聞くが、それに明るいわけではない。有名所をいくつか聞いたくらいだ。どうせなら、緑間に合った曲が良い。瞼を閉じて、今まで聞いた曲でどれが合うだろうと思い浮かべる。見た目は冷静で、誰よりも理知的に見えるのに中身は熱い思いで満たされているこの男に似合う曲……――。

「ベートーヴェン、ピアノソナタ第23番」
「アパショナータか?」

 パッと思い浮かんで口を突いて出たピアノソナタの番数に緑間はすかさず曲名を答えた。語尾が訊ねるように半音上がっているのは、どうやらオレからこの曲をリクエストされるとは思っていなかったらしく、眼鏡のブリッジをくい、と指で押し上げ意外そうな顔で確認するみたいに曲名を上げたからのようだった。

「それで間違いないよ。お願い出来るかな?」
「……ふん、そこで聞いているが良いのだよ」

 緑間は小さく深呼吸をし、鍵盤に指を置いて、熱情と称された曲を弾き始めた。初めはゆっくりと優雅なメロディなのだけれど、曲が進むにつれ徐々に激しさを増していくのがこの曲の特徴だ。そんな所がこの曲が緑間にぴったりだと思う一因でもある。
 オレはゆっくりと瞼を閉じ、緑間の奏でるメロディに聞き入っていた。手慰み程度の腕前かと思っていたが、想像以上の腕前だった。このままピアニストを目指しても良いんじゃないかと思うくらい。まぁ、本当にピアニストを目指されても困るけれど。なんせ、彼の才能は類まれなるものだ。
 川の奔流を想像させる激しさの余韻を感じながら、オレは瞼をゆっくりと開けた。緑間は小さく息を吐き、どうだ、とでもいうようにこちらに視線を寄越す。オレは小さく微笑みながら拍手を送る。パチパチと乾いた音が音楽室に小さく響いた。

「――素晴らしいね。思っていた以上だよ」
「褒めているつもりか、それは?」

 怪訝そうな顔をして、眼鏡のブリッジをくい、と押し上げる。思っていた以上、という言葉に引っ掛かったのだろうか? けれど、彼の演奏を素晴らしいと思ったのは事実だし、思っていた以上に彼に合っていた曲だからそのまま言っただけなのだけれど、もしかして腕前が思っていた以上だという意味で受け取ったのだろうか。まぁ、聞き始めた当初はそう思っていたけれど聞き終わった今となってはそんな思いなど何処かに行ってしまった。緑間の演奏は曲が進むにつれ聞き入ってしまう。最初聞いたジムノペディもそうだ。オレの足を止め、思考を停止させるには十分なものだった。

「勘違いさせてしまったのならすまないね。お前の腕前の事じゃないよ。思った以上にお前らしい曲だと思ったんだ」
「……意味がわからん。お前の言う事は時折理解に苦しむのだよ」
「そう? オレは思った事を言ってるだけだよ。最初にこの曲を聞いた時に思い浮かんだのはお前だったからね」

 眉間に皺を寄せて、ますます意味がわからないという表情を浮かべる緑間にオレは席を立ち、緑間に近付く。立つオレと椅子に座っている緑間ではオレの方が少しだけ高い。いつも見上げている緑間を見下げるのは少しだけ優越感に似たものを感じる。クスリと笑みを溢し、緑間の眉間の皺を伸ばすように指先でほぐしてやる。
 緑間はそんなオレの行動や言葉に苛立つでもなく、どうすればいいかと不思議がっているようだった。

「お前に合うと思っていた曲をお前が弾いてくれるというじゃないか。それも素晴らしいものを聞かせてもらった。今、オレの機嫌はすごく良いよ」
「……そうか」

 褒められていると思う事にしたのか、小さく息を吐いてオレから眼を逸らす緑間にオレは表情を変えず、笑みを浮かべたまま口を開いた。

「けれど、お前が何を思い浮かべてこの曲を弾いてくれたのか気になるね。聞いてもいいなら教えてくれないかい?」
「……別に何も、思い浮かべてなど……」
「見くびらないでもらいたいね。さっきの演奏でお前のピアノの技術は素晴らしいものだと理解しているけれど、表現のところまで技術で賄ったとはオレは考えていないよ。……別に言いたくないなら言わなくてもいい。ただ、歯切れの悪い言い方をしないで欲しいね」
「……わかった」

 お前らしくない、と付け加えると緑間は諦めたように小さく息を吐いてそう呟いた。そして気持ちを切り替えるように瞬きを幾度か繰り返し、眼鏡のブリッジを押し上げてオレを見上げるようにして顔を上げた。

「お前はこの曲で俺の事が思い浮かんだ、俺に合う曲だと言ったな」
「あぁ、そうだね」
「……俺は寧ろ、この曲はお前のようだと思ったのだよ」
「オレ?」

 オレの問い掛けに緑間はこくりと頷いた。

「冷静でいながら、常に激しさが渦巻いている……お前らしい曲だな、と何度も聞く度、そして弾く度、そう思った。だから、今回お前がリクエストした時は驚いたのだよ」
「……あぁ、だからあんな風に聞いてきたのか」

 アパショナータか、と確認するように曲名を答えた彼は確かに少しだけ驚きの色を浮かべていた気がする。それでもすぐに思考を切り替えてあれ程の演奏をしたのだからやはり称賛に価する人間だ、緑間は。

「……だから、俺はお前を思ってこの曲を弾いたのだよ」
「……その言葉だけ聞いたら、まるでお前に口説かれてるみたいだな」
「あながちその言葉は間違いではない。これでも、口説いているつもりなのだよ」
「へぇ……?」

 あんまりにも突飛過ぎる緑間の言葉に、オレは瞬きと相槌のような言葉しか返せない。その反応に緑間はム、と表情を顰めた。

「からかっているわけではないからな」
「お前がそんな事をする人間じゃないのは知っているよ。ただ……、ふぅん……。お前がオレにねぇ……」

 そもそも緑間のような人間に興味を持ってもらえる人間だとはオレ自身思っていない。オレを負かしたいとは思っているだろうし、司令塔や主将として頼りにされているとは思うがそれだけだと思っていた。だから、なんだか不思議な感覚だ。オレは緑間に好かれていたのか。

「……俺はどうでもいいと思っている人間や、好んでいない奴に対してピアノを聞いていけ等とは言わないのだよ」
「あぁ…、うん。そうだろうね」

 口止め料は口実か。なるほど、意地っ張りの緑間らしい。
しかし二人きりの演奏会といい、先程の言葉といい、緑間は意外とロマンチストだな。

「それじゃぁ、オレがもう一度弾いて欲しいと言ったら弾いてくれるのかい?」
「ふん、もとより長期戦は覚悟の上なのだよ。お前が望むなら、何度でも、どの曲でも弾いてやる」
「随分と挑戦的な口説き文句だな」

 そう言って笑みを溢すと、緑間も小さく口許を緩めるようにフッと微笑んだ。いつもはきつい眼差しも少しだけ柔らかさを含んでいた。


 どうやら演奏会はまだまだ終わらないらしい。



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -