泣けば世界の壁にぶつかる

手のひらが真っ赤に染まる。
ねっとりとした鼻をつく臭いが充満していて吐き気が強くなった。
喉の奥を突く胃液に思わず口を押さえて支えきれずふらつく足をそのまま折り膝をついた。
目の奥が熱いのに涙が出ない。

「はっ、はぁ……ぐっ」

押さえた手からは異臭が直に鼻を刺激する。吐き気が強くなった。
揺らぐ視界の中見慣れた人物が横たわっていてぐらぐらと脳が揺れる、そんな感覚。
震える手と噛み合わない奥歯が耳障りな音を立てた。
肩で息をするほどに呼吸が整わなくて俺は震える口を開く。

「し、んちゃん…」

一言発しただけなのに口の中の水分が一気に無くなり喉が痛みを訴える。
浅い呼吸が断続的に続いた。見たくないのに視界は一点から離れてくれない。
見慣れた鮮やかな緑の髪が酸化した血で薄汚れている。
震える足を叩きやっとの思いで辿り着いた。足が鉛で出来たみたいに動きが悪い。
自分自身の呼吸が耳につきそれ以外は何の音も拾わなかった。
震える指先で血の気が引いた顔色で横たえるその身体をこれでもかと言うほど抱き締めて俺は泣きながら叫んだ。




昼休み。教室は煩いぐらいに賑やかで、そんな賑やかな室内で俺はコンビニで買ってきたパンを食べていた。
弁当は既に食べきっていて部活前にコンビニに寄って買っておいたものを胃に入れていく。
あと購買で買ってきた生クリームプリンはデザートとして取っておく。
最近食べる量が倍、若しくは倍以上になってきた。その分身体を動かしてる訳だがそれにしても良く食べるようになった。
放課後部活が終わったらお好み焼きとかハンバーガー食べて帰るのが日課。
1日動いてるか食べるかどちらかしかしてない。文句も不満もないから良いんだけど。
向かいの席に座る人物も一年前よりだいぶ食事の量が増えた。
一年も一緒にいればこんな些細な変化も見つけられるのかと自分に感心。
黙々と弁当を食べ続ける相手を見ても特に気にしてないのか食事を続ける。
前は少しでも見ていれば話してもいないのに喧しいなんて言われた。
視線が喧しいとか聞いた事ない。

「真ちゃん弁当箱二つ持ってきてんの?」
「それがどうした」

弁当箱が空になるともうひとつ鞄から取り出すから俺は思わず手を止めた。

「普通は一個じゃね?」
「お前も弁当やらパンを食べているだろ」
「このスタイルは理解できるけど流石に弁当箱二つは初めて見る」

足りなくて俺みたいにパンとか肉まんとか食べるなら分かるけど結構な大きさの弁当二つとかそれ以上身長伸ばしてどうすんだ。
流石に天井と頭がぶつかる事はないだろうけど今だって教室に入るときは扉にぶつからないようにちょっと屈んでる事を知ってる。

「仕方ないだろう。腹が減っているのだから」
「その内2メートル超えるかもなー」
「高い方が便利だ」

全く仰有る通りで。けどさっきも言ったように不便も付き物だと思う。
俺はパンを食べながら食欲旺盛な真ちゃんを見て安心する。

「つーか俺に分けろとか思わねーの?」
「…訳が分からないのだよ。言っておくが弁当は分けないからな」
「そっちじゃねーよ、真ちゃんばっかりニョキニョキ伸びるから納得いかねーだけ」

食事の量も多少違うけど真ちゃんがこれから伸びるだろう身長を少しばかり分けてくれても問題ないと思う。
フルーツ牛乳を飲み干して俺はプリンに手を伸ばすと卵焼きを食べていた真ちゃんと目が合う。

「どしたー?」

プラスチックのスプーンを咥えて俺はプリンの蓋を開ける。
甘ったるい匂いがしてあれだけ食べたのに食欲を刺激していて女の子が甘いものは別腹とか言ってた事を理解した。これぐらいならまだ入りそうだ。

「おーい真ちゃん。気になって食えねーよ」
「気にするな。食べていろ」
「なに、欲しいの?」

箸がピタリと止まる。予感的中。
わざと聞いたのに真ちゃんの目がプリンを捉えたままだったから面白くなって一口食べて真ちゃんに容器ごと渡した。

「なんだ」
「真ちゃんにあげる」
「要らん」
「またまたー欲しいくせに。素直に貰っとけよ」

あからさまに視線を逸らしてくるから本当は食いたいのに嘘をついてるってすぐに分かった。
これも一年かけて理解した癖の一つ。無理矢理スプーンを押し付ければ受けとる。まったく素直じゃない。

「明日っから真ちゃんの分も買ってきてやるよ」
「その必要はないのだよ。妙な事をするな」
「まさか、俺と半分ずつ分けて食べたいとか」
「馬鹿か」

茶化しているとでかい溜め息を吐き出してプリンを食べ出した。
あんまり難しい顔して食べると消化に悪いって言うのに。意外と言うか真ちゃんも甘いものが食べられると知った時には毎日飴やらチョコやら渡してた気がする。
その辺の女子よりお菓子を持ってきてた事もあったなぁって沁々。
それがあってから真ちゃんの甘いものを食べる量も少し増えたような。
頬杖をついてぼんやりと真ちゃんを見ていたら何故かいきなり頭を叩かれた。

「いてーよ!割と普通に痛かった」
「お前が変な顔をしているからだ」
「はぁ?」

変な顔ってなんだ。
俺は普通に見てただけなのに。

「気付いてないのか阿呆。朝から様子がおかしいぞ」

真ちゃんの言葉に俺は分かりやすいぐらい目を丸くしていたんだと思う。
その証拠にまた溜め息を吐いて眼鏡のブリッジをあげる真ちゃんがいたから。
あー、失敗した。態度に出ていたんだ。
俺の下らない、忘れたいのに未だ鮮明に覚えているから今日は何でも言う事聞いてやろうとか思ってる事に真ちゃんは気付いてた。
正直気づかれないと思ってた。
他人なんてどうでも良さそうとか考えてそうな真ちゃんだから。

「もしかして心配してくれてる?」
「余計な事をされると気にしない方が無理なのだよ」
「真ちゃんやっさしー。俺、飲み物買ってくるけど何か欲しいもんある?」

我ながら下手くそな話の逃げかただけどこれ以上その話はしたくないわけ。
呼び止められたけど、はいはいおしるこねーと背を向けたまま片手を振る。
廊下に出ればツンと鼻が痛くなって泣きそうになった。吐いた息は白くて明日から学ランの下にパーカーかセーター着てこないとなぁ、なんて全然違う事考えて賑やかな廊下を歩く。
これだけ煩いのにまるで壁一枚隔てたみたいに遠く聞こえる。
自販機の前に来ても特に何か買おうと思った訳でもなくて真ちゃんが飲むだろうおしるこのボタンを押すと耳障りなほどに大きな音を立てて目的のものが落ちてくる。
屈んで取り出せば指先が火傷するんじゃないかって思うぐらいに熱い。
今日見た夢のお陰で上手く顔を見れない上に妙なテンションだと自分の中で反省。
俺の脳内はなんてものを見せてくれるんだ。気持ち悪い。
寒いくせに汗が流れてきて足がふらつく。
死なないのに。いや、でも人はいつ死ぬか分からない。
ぐるぐる思考回路は止まらなくて俺は手の中で先程よりも随分冷めたがまだ温かな缶を転がした。
何度も言い聞かせる。あれは夢だ。
教室に戻ろうとしたけど何故か今は戻りたくなくて俺は立ち止まり窓の外を見る。
憎たらしいほど澄み渡った空がそこにはあって寒ささえなければ申し分ない天気。
明後日から雨が降ると言っていたから今は薄い雲が途切れ途切れに流れている。
夏に比べて空が遠くなった気がする。
天高く馬肥ゆる秋とは昔の人は良く言ったもんだ。正しくその通りだと思う。
真ちゃんは夏でも食べる量がそんなに変わってなかったけど。
一年生の時はよく大坪さんに沢山食えって言われてた。
最初は渋ってたけど敗戦を重ねてまだまだ俺達の力が及ばない現実にぶつかって真ちゃんと居残りしていた。
今では日課になってるけどよく食べるようになったのは先輩達のお陰だ。

「おい、もうすぐ授業始まるぞ。早く戻れ」
「あ、はーい。」

空を見上げながら一年前を思い出していると一年生の時に英語を教えてくれた先生が居た。
気付けば昼休みが終わる三分前で俺は急いで教室まで戻り完全に冷めてしまったおしるこを真ちゃんに渡す。
流石に好きなものは要らないと言えないのか受け取ってくれた事に俺は安心した。

「どんだけ好きなんだよ。頼むから糖尿とかになるなよー?」
「ふん、問題ないのだよ。人事を尽くしている限り病魔になど負けるつもりもない」

なんだその確固たる自信は。おは朝は病気にまで勝てる番組なのかよ。
占いは信じてないけど純粋に気になる。

「あー、うん。俺やっぱり真ちゃんは馬鹿なんじゃないかって思う。うん、それなら死なねーわ」
「何?」
「いやなんでも?失礼しましたー。さーて授業だ」

馬鹿って単語に反応した真ちゃんをかわして俺は自分の席に座る。
あそこまで占いを信じるなんてすげーわ。
いや初めて会った時から色んな意味で凄いと思ってたけど。
教科書を取り出した所で先生が入ってきて授業が始まる。
腹が満たされた状態で席に座り静かな空間にいると眠気が増していく。
俺は欠伸を噛み殺して文字を追っていたけど昨日の夢見が悪かったせいで寝不足気味だった事もありいつの間にか意識を手放していた。




部活も自主連も終わって俺はボールを片付ける。
ついさっきまで真ちゃんはシュート練習をしていたけど漸く後片付けを始めていた。
戸締まりを確認していき体育館の扉も施錠する。
グラウンドを見れば野球部がナイターを始めていて他の部活は帰宅を始めているかもう学校を出ていた。
昼間とは打って変わってひっそりとしている校内は不気味だ。
見知った敷地内なのに全く別の顔をしている。

「さみー。真ちゃん早く帰ろーぜ」

部室には俺達二人しか居ない。学ランを着てマフラーを巻いても寒いものは寒い。
やっぱり明日は絶対にセーターかパーカーが必要だ。風邪を引いて練習を休むなんて馬鹿な事はしたくない。

「馬鹿め。薄着だから寒いのだよ」
「わーってる。今、俺は猛烈に反省してる最中だから早く帰ろーぜ」
「まったく」

1日に何回馬鹿って言われてるか分からない。
語尾の口癖並に多いかもしれないのだよ。
真ちゃんは手袋までして完全防備だ。部室の鍵も閉めて鞄の中へ片付ける。
朝練も俺達が一番に着くから特別に予備の鍵を貰えた。
外に出れば寒さは容赦なくてマフラーに顔を埋める。
時間はそこまで遅くないのに見上げれば星が光っている。
冬至までは日の入りが早くなる一方だからこれからもっと暗くなるのか。
正門にはクラスメートが居たから挨拶をしていつもの道を進む。
話す内容は思い付いたまま。まぁ大半がバスケのこと。好きな事だから話が弾む。
真ちゃんも俺も本当にバスケ馬鹿だ。

「つーか明日は手袋も必須だよなー」

手を擦り合わせて息を吐きかける。シュートをする時の話から随分逸れてしまったが特に気にしてないのか真ちゃんは学ランのポケットに手を突っ込む。

「これでも持っていろ」
「っと。は?なにもうカイロ?早くね」

投げ渡されたものは温かくてしっかりと確認するまでもなくカイロだと分かる。流石にここまで準備万端だとは思わなかった。擦れば時間が経った今でも温かさを保っている。

「今日のラッキーアイテムだ」

あ。妙に納得。だから持っていたのか。

「そんな大事なもん、俺に渡して良かったのかよ」

命の次に大事なんじゃないかって思うラッキーアイテムを渡されて俺は思わず真ちゃんに突き返す。
これ手放した瞬間に何か良くない事が起こるんじゃないか。忘れてた筈なのに夢と同じ事でも起こった時には俺は全力で占いを信じる。

「さそり座のラッキーアイテムだ。占いは見ておけと言っただろう」
「いやいや俺、占いなんて信じてないのって前に言った気がするんだけど」
「見ていないから妙な顔をする羽目になるのだよ」

占いは信じてないけど今の真ちゃんの言葉に揺らぐ。
これさえあれば大丈夫なのか。
此処まで占いを信じる人間がいるのだと番組側に教えてやりたい。
努力はこれでもかってほどしてる、あとは運勢で補正するだけ。
長く外に出していたカイロは冷えきっていて、まるで夢の中の真ちゃんみたいだ。
考えないように意識していると余計に考えてしまう。大丈夫だ。真ちゃんは死なない。
やけにリアルだったから不安になる。言い聞かせる自分が酷く情けなくて歩く速度を落とした事にも気付けなかった。

「高尾」
「ぐ、あ、っ、な、なに」

俺以上に遅く歩いていた真ちゃんに襟首を掴まれて強制的に足を止めた。踏み留まったけど俺の頭が顎にぶつかる所だったぞ。それで気絶でもした日には俺の笑いが止まらなくなるからやめてくれ。

「いい加減その顔と態度をやめろ」
「は?俺はいつも通り」
「普段以上だから言っているんだが」

服を掴んでいた手が離れていき何故だか俺は泣きそうになった。
理由は色々あったけど歪む口を隠すようにマフラーを上げる。
結構見られてんのね俺。
眼鏡越しでも真っ直ぐ投げ掛けられる視線に俺は観念したように目を合わせた。
頼りない明かりが周りを照らす。
住宅街は人がいるくせに妙に静かで遠くを走る車の音が届くだけ。外灯に照らされる真ちゃんの顔は白い。青白い訳ではない。

「あーのさ、最初に言うけど、笑うなよ?」

頭を掻いて真ちゃんを見上げれば視線だけで早くしろって言われた。俺は渋りながらも少しずつ今朝見た夢の話を始める。有り得ないけど血だらけの真ちゃんがそこには居て冷たくなっていた。
吐き出すように言えば鼻も喉も痛くなってきて苦しい。
吐き出す息が言葉が喉に引っ掛かって苦しい。
夢に見るまで真ちゃんが好きで好きで。でも夢の内容は俺を容赦なく突き落としていくもので。

「っ、」
「…本物の馬鹿だな。簡単に死んでたまるか」

話していく内に俯き足元しか見えていなかった俺の視界は揺れた。
目の前には俺じゃない学ランが目に入る。
額に触れるのは真ちゃんの肩だろうか。肩口に触れる形で真ちゃんに抱き寄せられていて泣きたくなりそうな気持ちを必死で堪えた。

「なんかい…馬鹿って言うんだよ」

漸く口を開けば考えていた事と全然違う言葉が出ていた。
柔らかく頭を叩かれ撫でられて俺は目を閉じる。
温かい。冷たい真ちゃんじゃない。言葉が出てしまう前に俺は顔を上げて少しだけ距離を取る。
取り込む酸素は冷たくて気管に入るたび噎せ返りそうだ。本人の口から死なないと言われて何の保証もないのに安心する。ふと俺の肩に熱が伝わって見上げた先には見慣れた緑の髪がそこにはあった。
暗がりでも綺麗なそれよりも俺は視線を奪われた。
思わず伸ばしてしまいそうな腕を押さえ込む。
きっと今の俺は泣きそうな顔をしてる。なのに

「なんで真ちゃんが」

泣きそうな顔してんの。

俺の下らない話を聞いて馬鹿みたいだと罵ってくれると信じてたのに。今度こそ目には薄い膜が張って瞬きをすれば零れ落ちてしまいそうだ。肩に回された腕が俺を引き寄せて俺は小さく真ちゃんの制服の裾を掴んだ。
奥歯を噛み締めて漏れる息は熱く白い。

「これも夢、みてー」

手の届く距離に真ちゃんがいる。
心地のいい関係を壊したくない俺は一言が言えずじまいだけど気持ち悪いと思われるよりマシだ。だから今、すごく幸せで夢の様な不思議な感覚。

「は、」
「っ、これでもまだ夢だと言い張るのか」

肩を掴む手が痛いぐらいに俺を力強く抱き寄せてきて呼吸を忘れる。
あー、うん。夢じゃないけど俺にとっては夢のようだよ。
全部夢が良かったんだよ。
真ちゃんと会った日から。

そうすりゃ、こんなに好きにならなかっただろ。

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