「君と一緒に海が見たい」



 そろそろ寝ようかと部屋の電気を消して布団に潜り込んだ瞬間、唐突に窓から現れたシュウのその一言によって、俺と彼は今夜の海にいた。こんな深夜に外出だなんて普段の俺からしてみれば考えられない程の暴挙であり、もしも今日がこの島で過ごす最後の夜でなかったのならば俺はこの誘いを断っていただろう。最後の夜くらい、シュウと二人でこの島のこの海から見える夜を眺めてみたくなった。部屋を抜け出した理由なんてそれだけで十分だった。

「今日は特別星が綺麗だね」

シュウは俺の隣で目を細めてそう言った。ああそうだな、と何の変哲もない返事を返す。星を映す夜の海は水平線すらも黒に紛れ、まるで辺り一帯が宇宙に変わってしまったみたいだという我ながら恥ずかしい感想を抱いた。

「ごめんね、明日出発だっていうのに連れだしちゃって」
「別に構わない。それに、それはお前も同じだろう」
「…まぁ、そうなんだけど」

シュウは笑う。綺麗だなと思った。星を見て綺麗だと感じることはあれど、こんなふうに胸が高鳴ったりはしない。いったい何を見てどういうふうに生きていけばこんなに綺麗な人間ができるのかといったい何度考えただろう。きっと世界中にありふれている綺麗な物をかき集めたって、シュウ程綺麗なものが完成することはない。シュウを見るたびに、いつもそんな事を思っていた。

「…明日、」
「え?」
「明日が楽しみだな」
「…うん」
「この島を出たらシュウと一緒にやりたい事とか、行きたい所がたくさんあるんだ」
「そうだね」
「早く明日が来ればいい」

 街に出たら、まずは何をしようか。最近はずっとそのことばかり考えていた。シュウはしばらくこの島から出ていないと聞いたので、まずはここでは食べることができないような贅沢な料理でも食べさせてやろう。きっと気に入ってくれるはずだ。それから、少々子供っぽいかもしれないけれど遊園地に連れていってやるのもいいかもしれない。きっとシュウが見たことのないもので街は溢れ返っている。
そう一人で思考に浸っていると、ふいにシュウが口を開いた。

「ねえ、白竜は覚えてる?」
「ん?」
「僕達が初めて会った時のこと」

じっと俺を見据えるその視線が恥ずかしくて、思わず目を逸らしてしまう。

「…まあ、なんとなく」
「よろしくね、って僕が手を差し延べても、君はその手を取ってくれるどころか目を合わせてすらくれなかった。煩わしそうにあぁとだけ返事をしてすぐにどこかへ消えてしまったよね」
「…そうだったか」
「そうだよ。なんて無愛想な奴なんだって、さすがの僕もいらっとしたのを覚えてる。もったいないやつだなって思った」
「もったいない?」
「ああ、もったいない。世界の何にも興味がありませんみたいに冷たい目をして、全部を自分から遠ざけてた。もっともっと笑えばいいのに、ってずっと思ってた」

だから今君がちゃんと笑えるようになって僕はすごく安心しているんだ、とシュウは言った。長く生えそろった睫毛が月の光を受け、光っているように見えた。

「…もしもお前の言った通り、今の俺がちゃんと笑えているのだとしたら」
「うん」
「それはお前のおかげだよ」
「…うん、知ってるよ」

だから僕は嬉しいんだよ、と言って僅かに頬を赤らめたシュウを見て、なんだか猛烈に恥ずかしい事を言ってしまったかのような気分になる。シュウは俯かせていた顔を上げ、夜空を仰いだ。綺麗な視線だった。

「…こうしていると、いろんな事を思い出すね」
「いろんな事って?」
「君に好きだって伝えられた時の事とか。白竜が顔を赤くしながら好きだっておっきな声で叫んで、僕もだよって伝えたら君は少し泣きそうな顔をした」
「…よく覚えているな」
「全部覚えているよ。1秒だって忘れたくないんだ、全てが僕の宝物だから」

シュウは切なげに目を細める。それを言うなら俺だって、シュウと過ごした時間、シュウと交わした言葉、何一つとして忘れたくないと思うけれど。でも俺達には、まだまだこれから無限に続く時間がある。俺はこれからシュウと共にもっとたくさんの時を過ごし、もっとたくさんの言葉を交わし、たくさんの思い出を重ねるのだ。今の俺にはそれが楽しみでならなかった。それがシュウも同じであるのだと、信じて疑わなかった。

「…このまま、世界が終わってしまいそうだね」

シュウはどこか寂しそうな声でそう呟いた。耐え切れなくなり、俺は風に晒されて冷たくなった腕で強くシュウの体を抱きしめる。シュウの体の冷たさに少し驚いた。

「…なんでそんなに寂しそうなんだよ」
「なんでだろうね。この島を離れるのが寂しいのかな」
「これからも楽しい事なんてたくさんあるさ」
「…そうだね」
「世界が終わったりなんかしない。ちゃんと明日は来る」

彼を抱きしめる腕に力を込める。耳元でシュウがありがとう、と囁いた。波の音に掻き消されてしまいそうな程小さな声だった。

「白竜、すきだよ」
「俺もだよ」
「…君と、ずっとこうしていられたらいいのに」
「シュウが望むなら、いつだって抱きしめてやることくらいできるさ」
「…うん」

シュウは俺の頬にそっと手を添えた。

「白竜、目を閉じて」

言われるままに俺は瞼を伏せる。困った事に目を閉じてもまだそこにはシュウの姿があった。俺はこんなにも彼に恋い焦がれていたのか、そう思うとなんだかちょっと笑えた。冷たい彼の手に俺の手を重ねる。そうしているだけで、シュウとこのまま一つに溶けることができるような気がした。

「…ありがとう、さようなら、白竜」

シュウが俺の耳元でそう囁いたが、どういう訳か意識が遠くなった俺の耳ではその声を鮮明に聞き入れる事が叶わなかった。









 目を覚ました時、俺は砂の上に一人で寝転んでいた。耳の中には波の音が当然のようにこびりついている。長い間ずっとこうしていたみたいだ。風に晒された剥き出しの腕は冷たく、辺りを見回してみても誰もいない。なんだか急に不安になって、慌てて名前を呼ぼうとした。

「…?」

そこで気がつく。俺は今、誰の名前を呼ぼうとしていたのだろうかと。
そもそもどうして俺は一人でこんな時間にこんな場所にいるのだろう。明日はこの島を発つ予定だ、普段の俺ならば絶対にこんな馬鹿な真似はしないはず。なら、どうして。

しばらく考えこんでも答えが出てこないので、俺は立ち上がって施設へ帰ることにした。夜明けが近いのか、東の空は明るい。今頭上で瞬いている星も、あと数分したら消えてしまうだろう。綺麗だな、と思った。そう思えば思う程、何故か胸が締め付けられた。

 歩きながら、そういえばこの島に来てから随分と経つのに海に来たのは初めてだと考えていた。来てみようと思ったことすらなかった。当然だ、サッカーの練習で忙しくてそんな暇など無かったのだから。俺はアンリミテッドシャイニングのキャプテンで、ゼロのキャプテンで、ここまでずっと一人きりで誰の力を借りることもなく血の滲むような特訓をしてきたのだから。
…そのはずなのに、それを思い返してみるとなんだか自分の記憶の中に奇妙な違和感を感じる。考えれば考えるほど頭が痛くなる。胸の中にぽっかりと穴が空いている。誰かが俺の隣にいたような気がする。俺の隣で、優しく名前を呼んでいたような。

「…!」

温い涙が頬を滑り落ちていた。何故なのかもわからないのに、涙が溢れて止まらなかった。この胸を刺す痛みの正体は、紛れも無く喪失感だった。何一つ失った物などないのに。

 空を見上げる。夜の闇が数多の星を連れ、昨日へと消えようとしていた。まるで世界の終わりを告げているみたいだ。それがどうしようもなく怖いことに思えて、俺は朝が来るまで一人きりでずっと泣いていた。




120225


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