「ただいま」
 いつものように、鞄を玄関に下ろして靴を脱ぐ。しかし、誰からも返事がない。
「?」
 この時間なら、母は帰宅しているはず。それに、昼休みに電話はしておいた。母が約束を破ったことはない。
 リビングの電気がついているはずだと不審に思った梗華は、鞄を抱きかかえた。


きっ

きっ


 廊下が鳴くような音を立てる。


きっ


 一歩、一歩。

「……―――」
 息を潜めて、そっと、閉じたリビングの扉をガラス越しに覗く。誰もいない。
 夕食の買出しかな、と思って扉を押してリビングに入る。

「…あれ?」

 夕食を作っている途中のようだ。キッチンにはまな板や包丁、調理中の食材がある。意表を突かれ、梗華は首を傾げた。夕食を作っている途中なら、余計に出かけるはずはない。
「………」
 しばし考え込むが、答えは浮かぶはずもなく、必要なプリントを数枚テーブルに置き、鞄を持ってリビングを出た。
 階段を上がる。


ぎぃ

ぎっ

ぎっ

ぎぃ


 古くなった階段が音を立てる。生まれたときからこの家で暮らしているから、かれこれ十七年の付き合いになるのだろうか。幼い頃は一人では階段ものぼれなかった。
 部屋の扉を押して自室に入る。
「ふぅ…。肝心の両親がいないとはな。もし何も聞き出せなかったら、恭一になんて言われるか……」
 鞄を放り出して、上着を脱いだ。ベッドに飛び込んで横たわる。
 普段は私服でいられるので楽なのだが、基本的に白で統一しているので、ちらりと見ただけではあまり代わり映えしていないのかもしれない。空目は黒で統一しているが、あちらは適当の割にこちらよりも目立つ。もしかしたら元がいいからかもしれないと考え、梗華は頭を振った。何故ここで空目のことが出てくるのだろう。

 何も話してはくれない両親。

 幼少期の奇怪体験。

 一家丸ごとの神隠し。

 そう言われてみればあきらかにおかしいと思うのだが、今までは話してくれないのならまあいいかと納得していた。
 …空目は、異界に興味を持っているだけだ。梗華個人にではない。俊也は、そんな空目を守りたいと思っている。近すぎず遠すぎず、梗華はそんな二人の関係を羨ましく思った。
 梗華には親しい友人というものがいないから、分からない。いつでも、うわべだけの付き合い。自分の本当を隠して、まるで仮面舞踏会にいるようだった。その自分が、何故空目のことなど、文芸部のことなど気にしているのだろう。考えるだけ無駄だとわかっていても、今まで感じたことのない感情に、梗華は自身の真意を探らずにはいられなかった。


がちゃり


 ドアノブを回す、微かな音。
「あ、」
 誰かが、帰って来た。たぶん、ドロボウではないだろう。そう見当つけて、梗華は身を起こして、階下へと下りていった。
 一度訊ねてみて、たとえ駄目だとしても何度でも、何度でも聞き出せるまで踏ん張ろう。そうでなければ、協力してくれたみんなに悪い。
 ―――みんな?
 そうだ、文芸部の、亜紀や、稜子。武巳に俊也。そして、空目とあやめ。
 この、異界についての調査が終わったら、彼らから身を引こう。そして、今まで通り誰とも関わりを持たずに過ごそう。
 そう決心する。
 けれど心のどこかで、彼らともっと話してみたい、繋がっていたいという感情が鎌首をもたげる。
 何故――?
 そんなに彼らのことが気になるのだろうか? 彼らなのか、それとも――。
 梗華はリビングを覗き込んだ。

「あれ? 父さんも、今日は早いのか?」

 いつもはもっと帰りの遅いはずの父が、テーブルについていた。母はキッチンで夕食の支度をしている。
 一家揃うのは久しぶりな気がして、テーブルの椅子を引いて座る。
「今日も、昨日みたいにお友達の家へよってくるのかと思って」
「ん。でも、昼に電話したときにまっすぐ帰るって言わなかったか?」
「――あら、そうだったかしら?」
 母は少し黙って、いつものように夕食の支度をしながら話す。少しぼんやりしている母のことだから、友達ができたと(勘違いだが)言ったのが嬉しくて、そう思っていたのだろう。
 父は黙って新聞を読んでいたが、やがて母に今日の夕食は何か訊ねた。母は珍しく上機嫌に刺身だと答えた。
 父のボーナスでも入ったのだろうかと少し不審に思うが、深くは詮索しない。
 母が包丁を研ぎながら梗華と父へ話しかけてきた。
「ねえ梗華。たしか――小さい頃、何があったか知りたい…んだっけ?」
「そうなのか…?」
「ああ…知っている限りでいい。教えて欲しい」
 父が、梗華の顔を見る。
「ねえあなた、そろそろ梗華も大人になるのだから、……良いんじゃないかしら?」
「ああ…それも、そうだな」
「それじゃあ…」
 ようやく、今までの謎が解ける。そしてそれを元に、父や母を守ることができるのだと、梗華は珍しく心を躍らせた。
「ただし、明日だ」
「…は?」
 真面目な顔をしていた父はふっと顔を緩ませ、梗華は一瞬間抜け面になった。
「明日は休日だからな。梗華は、予定が入っているか?」
「い、いや…ない、けど」
 じゃあ、決まりだと、にっこりと笑った。








「はあ――」
 食事を終えて部屋へ帰ってくると、一気に脱力した。そして、シャワーをする前に空目にメールでもしておくかと思い立ち、梗華は携帯を開き、題名はつけずに簡単な内容のメールを打った。

『明日、午前十時。私の家の前。』

とだけ打つ。
 そして下着類を持って風呂場へ降りた。





 シャワーから上がると、時計の針は午後11時半をさしていた。
 少しだけ机に向かって予習復習をしてから、日付が変わった頃にベッドに入り、眠りについた。
 普段は布団に入ってからもしばらく寝付けないのに、その日はやけに早く眠りについた。そして眠りに落ちる前に、芳しい花の香りと――血の匂いがした気がした。





 翌朝、午前6時半ごろに起きた。いつもより遅いが、気が焦って早くに目が覚めてしまったのだろう。夢の残り香が、意識の片隅に残っている。
 梗華は大きなあくびを一つして、服をクローゼットから見繕う。春物の襟付きワンピースに袖を通し、臙脂色の棒タイを結ぶと、髪を梳いて部屋を出た。
 階段を下りてリビングに入ると、母が椅子についていたが、父はまだ寝ているのか姿が見えなかった。
「あら、おはよう」
「お早う。父さんは?」
「散歩。最近太ってきたからって。まだまだ大丈夫よねえ」
「そう」
 母の言葉に頷くと、椅子を引いて座った。テーブルの上に出ていた蜜柑の皮を剥いて一房口の中に放り入れると、新聞を取ってざっと目を通した。

 

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