母と談笑しているうちに、父が帰ってきた。時刻は、丁度9時前。
 父がシャワーをして着替えて出てくると、母は席をつめて父の座る席を作った。
「なにから、話すべきかな」
「……まず、何があったか。最初から、全部。包み隠さず」
「分かった」
 そういって父は話し始めた。時折母に確認を入れながら、真剣に、梗華に話して聞かせた。


 梗華が3歳のときに山へ行って神隠しにあっていたこと。

 父や母は交通事故だと思い、電話が通じなかったので困っていたこと。

 彼らが発見されたとき、神隠しから2週間経っていたこと。

 父と母はその事故の後から人が変わったようだと言われるようになったこと。

 梗華はその事故の後から不思議な雑音を聴き取るようになったこと。


「と、いうわけだ。その時お前に何があったか、私たちも知らないんだ」
「……そう、か…」
「力になれなくてすまない」
 父は説明が終わると、申し訳なさそうに付け足した。
 梗華は俯いてそうか、と呟いた。原因不明らしいが、どういった経緯かが分かったので、それだけでも良しとする。
 時計を見ると、10時前。今からコートを着て外に出れば、丁度空目たちに会えるだろう。専門家、とは言えなくても、詳しい人に頼るのが一番だろう、


がたり


「?」
 今、椅子を引いて立ち上がったのは梗華ではない。音がしたのは目の前に座っている母の椅子だった。母は立ち上がってキッチンへ入った。ここからは死角になっていて見えないが、きっと父に朝ご飯を作るのだろうと想像して、梗華も立ち上がって、リビングを出ようとする。


がたり


 また、物音がした。今度は、父が椅子から立ち上がる音だった。きっと一度部屋へ戻るのだろう。
「じゃあ、ちょっと出かけてくる。」
 キッチンにいるだろう母へ声をかけてリビングを出る。
「………」
「?」
 反応がない。聞こえているはずなのだが。
 まあ、いい。
 リビングを出て階段を上ろうとすると、また、がたりと音がした。リビングの扉から見える様子では、中で父と母が廊下へ出ようとしている。どうかしたのだろうかと疑問を抱くが、やはり今はそれよりも、空目たちにこのことを伝える方が先決だ。そう考えながら階段へ足をかけると、


がちゃり


 とノブのまわる音がして、リビングから母と父が出てきた。
「!」
 ちらりと視線を走らせた梗華の視界に入ってきたのは、砥がれた包丁を持った母の姿。
 そんなものを持ち出して、一体何をするのだろうと動けずに見ていると、
「話したし…梗華も、そろそろ換わってもらいましょうか?」
「…何の、ことだ」
 母がにこにこと微笑みながら、その切っ先は下げずに一歩、一歩と近づいてきた。梗華は、薄ら寒いものを覚えてたじろぐ。
「あのねえ、あの事件の後から私たちの人が変わったって、比喩じゃないのよ。――本当に、別人なの」
「……え?」

 一瞬、頭がフリーズする。


 それは、


 どういう


 こと



「本当の母さんと父さんは、十何年も前に、――亡くなっていた、のか?」


 なのだろう。


 梗華はじりじりと後退しながら言葉を紡いだ。
「ええ、そうよ。私たちは、貴方の両親と入れ替わってこの世界へ出てきた妖精なの。信じられる? 無理よね。…だってそんなこと、一言も、言わなかったもの」
 また一歩。
「本当は貴方も入れ替わる予定だったのだけれど、子供の頃ってそういうのに敏感でしょ? だから、耐性もあったみたいね。それに貴方には、厄介な右目もあった」
 また一歩。


どんっ


「!?」
 梗華が吃驚して振り向くと、階段の手前で、下がれるだけ下がりきってしまったようだ。足をぶつけた弾みで階段にへたりこむ。
 また一歩。
 すり足で少しずつ、近づいてくる。
「本当のことも話したし、貴方も随分成長した。だから、そろそろ―――入れ替わってもらいましょう」
 目の前に立たれ、後ろは階段。

 梗華の、道は絶たれた。


ぶんっ


 包丁を振り上げる音。


どっ


 切っ先が、肩に触れる。


ビッ


 衣類を裂く音。
 そして少し遅れて、痛みが走った。
「っ」
 左の肩口から右の腹部まで一直線に赤い線が走る。じんわりと赤い雫が梗華の皮膚を割り開いて出てこようとする。まだ、浅い。
 そしてまた、振り上げた。
「っ!」


どんっ


 今更のように恐ろしくなって、梗華は目の前の障害物を突き飛ばした。

(ここにいては駄目だ。……待ってなんかいられない。空目のところへ――)


どんっ


 今度は、梗華自身の体に衝撃が走る。
「な…に……っ」
 後ろから、深々と刺されている。ゆっくりと白い布地が赤く染まっていき、鈍い痛みが梗華の身体を走る。
「駄目よ…大人しくしてくれなくちゃ。一度死んで、それから換わってもらうのだからね」
 狂った笑みを貼り付けて、包丁を握る両手を赤くして包丁を深く刺す。
「っ…!」
 焼けるような痛みが走る。体が引き裂かれるようで、血を吐きだす喉は熱く、痛みを訴えている。
 ぼたぼたと血が廊下に滴り落ちる。
「このっ……!」
 力の限りに突き飛ばす。母親だったものを。そして背中に刺さった包丁を引き抜いて、投げ捨てる。
 よろけながらも玄関を目指す。
 血が、点々と道を残す。
 なんとか玄関までたどり着くと、梗華は靴も履かずにドアノブを握った。自身の血で汚れ、すべる。
 数秒の格闘の末扉を押し開けると、


ゴッ


 後ろから再び、鈍い音と痛みが響く。
 父親だったものがリビングの椅子を振り上げて、梗華に振り下ろしていた。
 一度目で、梗華を扉から離す。


ゴッ


 二度目で、椅子に赤いものが付着する。


ゴッ


 三度目で、玄関に赤い花が咲く。


どさ


 梗華が動かなくなったことを確認すると、父親だったものはそのままその場に倒れ付し、動かなくなる。階段のほうから母親だったものが包丁を持ってじりじり這いよってくる。
 梗華に意識はあるものの、身体が思うように動かなかった。助けを呼ばなければと思うのに、声が出ない。携帯は手元にないし、電話までは遠い。そして一番近い外への扉も、ドアノブが高く遠く、届かない。
 視界の端に母親だったものが映る。こちらへ来るつもりらしい。そうとわかっていても、やはり梗華にできるのは視線を動かすくらいだった。
「う……」
 母親だったものが梗華の元へたどり着く。玄関に下り、梗華の上にまたがって包丁を振り上げる。
「まずは、その目……っ」
「!」
 梗華が息を呑む暇もなく、包丁が振り下ろされた。


ぐちゃっ


「―――っ!!」
 血で滑った包丁は梗華の菫色の瞳からやや見当違いな場所に振り下ろされて、鈍い音を立てる。


ず、ずず…


 グロテスクな音を立てながら、包丁を引き抜く。
「っぁ…」
 右目から、涙のように血の雫が流れる。目を細めても、瞼と眼球に傷が付いているからか、ぼんやりと視界が滲んでよく見えない。
「あとは――」
 異形の者がもう一度、包丁を振り上げる。
 渾身の力を振り絞って下ろされようとする腕を払うと、パンと乾いた音を立て包丁が手から滑り落ちた。
 母親だったものが気を取られた瞬間に、それを押しのけて、縋るように玄関の扉を押し開けて外へ出る。
「はっ、はっ……」
 荒くなる息を整えながら門を目指す。最初に斬りつけられた傷が開き、血が滲んできていた。深く刺されたわき腹が、高熱を有しているように熱く、痛む。
 母親だったものがこちらに気づき、包丁を何とか手に入れてふらりと立ち上がる。その瞳の焦点はもはや定まっておらず、人と呼ぶにはあまりに異常過ぎた。
 梗華が門へと手を伸ばす。
 異形が梗華へ腕を伸ばす。


 どちらが、


 先か。


―――どすっ


 梗華の手がするすると落ちていった。
 腹部に鈍い痛みがあり、見ると包丁が刺してあった。母親だったものは、梗華の腹部を抉るようにして包丁を引き抜いた。内臓をかき乱されるような感覚に、梗華は遠退きそうになる意識をなんとか繋ぎとめた。
 熱い。
 腸を引きずり出してしまいたい。皮を剥いでしまいたい。痛みを訴える神経を断ち切ってしまいたい。考える脳を潰してしまいたい。
「あ……」
 梗華の意識が飛ぶ寸前、母親だったものが再度腕を振り上げるのが見えた。


どんっ


「!」
 大きな音にはっとすると、目の前で母親だったものが蹲っている。ちらりと赤いものが見えた。
「…え」
 梗華は驚いて自分の手を見ると、なぜか血にまみれた包丁を握っていた。そしてその切っ先も、握る手も赤く染まっていた。
 赤く。
 血が、滴っている。
 血が――。
 やがて手が震えていることに気づく。母親だったものはぴくぴくと蠢いている。虚ろな眼窩が、梗華を見上げる。
 梗華の肉体を蝕む痛みが、梗華の精神を喰い散らす痛みが、梗華を彩る痛みが、告げた。


 オ前ガ、殺シタ。


「あ…ぁあ………ぁぁあアアアァアアぁァアアアアアアアああぁアあああっっ!!!」

 

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