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「別れよう」彼が執行官になるときいたときは驚いた。だからこう言われることも覚悟はしていたはずなのに、私の何処かがそれを認められずにいたのだ。さめざめと雨が降りしきる夜だった。それから彼は執行官になって私と彼の間にはなんにもなくなった。
どんなに悲しくたって苦しくたって、人間だからいずれは慣れてしまうもので、彼のいない日々はゆっくりと過ぎていく。されど私のなかみを満たしていた彼の居場所には今はなんにもない。からっぽだ。


「彼のことが、まだ好きなんだね」


その言葉は、がらんどうな私のなかみをぐらりと揺らすには十分すぎるものであった。


「、そんなの槙島くんには関係ないよ」


強がりだね。ゆるやかに弧を描く唇。彼はうつくしかった。出会った頃からそれは変わらないままだ。うつくしい彼に魅了されるがまま、わたしは人を殺める様をみてきた。からっぽの心を満たすものを、探していたのかもしれない。そして今回も。


「…久しぶりだね、コウちゃん」


久方ぶりに見るその姿にからっぽだった私のなかみは高鳴っているようだった。驚きに見開かれた瞳。ゆるりと口角を上げる。綺麗に笑えている自信はなかったけど。


「何でお前がここに…」
「私、槙島くんと一緒にいるの」


槙島。その名を口にした瞬間に彼の眼差しが獲物を狩るそれに変わる。その瞳に見られるだけでぞくりと背筋が粟立った。


「…お前は、槙島につくのか」
「うん」
「……なら、容赦はしない」


向けられた銃口と狡噛の鋭い目にぞくぞくした。ドミネーター。シビュラの目。それで私を撃てばいい。どのみち私のサイコパスはもうお仕舞いなのだ。あの雨の日から。
受け入れるように両手を広げて彼を待つ。昔、彼を受け入れたときと同じ笑顔で。ただし、あのときとはもう何もかもが違う。私たちは大きく変わってしまった。「コウちゃん」昔のように柔らかく名前を呼べば、彼の瞳の奥がぐらりと揺れた気がした。すこしでも彼を揺らすことができた、それっぽっちのことで満足感を覚える。


「コウちゃん。あのとき別れようって言ったのは、私のためだっていったよね」
「、ああ」
「ふふ コウちゃんは優しいから、きっとそう言うだろうなって思ってたよ」
「でも、そんな優しさって、残酷だね」


彼は鋭い目のまま、しかし苦悶を浮かべながらトリガーを引いた。


「コウちゃん、すきだよ」


私は努めて無邪気に笑った。昔の私のように。最期に彼の瞳に映る私が綺麗であるように願いながら。コウちゃんは優しいから、きっとこのことを脳裏に焼き付けるだろう。笹々山執行官のように。彼は決して私を忘れることはない、彼の中に私は生き続けるのだ。


君のためと言いながら、あなたが振り返ったことなど一度もない
130128

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