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大量の文字列から視線を外して、欠伸をひとつ。ふわあ、と間抜けな声が漏れる。声だけでなく顔も大層間抜けであろうが、別段気にすることはない。誰も見てはいないのだから。

執行官になってからもう三年ほどかとぼんやりと考える。それはすなわち、征陸と出会ってから経つ年月でもある。私よりずっとずっと長くここに居る征陸といえば、様々のものが乱雑に並べられた私のディスクの隣で油絵を描いている。非番中はいつもこうなのだ。


「随分と大きな欠伸だな」


大きな声でがははと笑うそれを、私は嫌いではない。声の大きい奴はあまり好きではないが、この男の笑い声は不思議と耳に心地好いのだ。だが私は弛もうとする頬をおさえ、敢えて不機嫌そうな表情を作る。


「うるさいし、笑いすぎでしょ!ばかばか!ばか!…おまえのかーちゃんでーべそっ!」
「名前はもう少し言葉のボキャブラリーを増やしたほうがいい」


一層笑いを深めながらがしがしと頭を揺らされる。撫でるにしては力強いそれに、私はなされるがまま。大きくってごつごつした手は不思議と私を安心させた。


「うーん…休憩しよっと」


ひとしきり笑い合ったあと、大きく伸びをしながら立ち上がれば、普段は見えないつむじが見えて、なんだか可笑しくなってしまった。訝しげにこちらを見る征陸に笑みを携えながらコーヒーでいいかと訊ねれば了承の返事。そのまま部屋を出て目的の場所へと歩き出した。


「名前」


そう話しかけられたのは自動販売機が吐き出したコーヒーを抱えてからだいぶ経った頃だった。


「ああ、ごめん。遅かった?」


慌てて征陸と同じものを押せばガコンと固い音と共に吐き出されたそれを征陸に渡す。あれだけ悩んだ時間が勿体なく感じた。
礼を告げてコーヒーを啜る征陸に返事を返してソファに座り込む。啜ったコーヒーがほろ苦くて無言で眉を潜めれば、背中を向けた征陸が笑った気配がした。なによ、子供だとでも思ってるの。少しむっとして、それからちょっぴり悲しいような切ないような、よくわからない感情が湧き上がる。「なあ、名前」それが何かと考えていると、征陸の呼びかけに答えは出ずのまま思考はストップ。
背中を向け景色を眺めていた彼は、私を振り返り、酷く真剣な表情をこちらに向ける。すると私はどうしてか、息を吸い、吐き出すというありふれた所作が難しく、困難を感じるようになった。こんな真剣な表情、仕事以外では見たこともないからだろうか。私はその時に限って、どうしようもない息苦しさを抱いた。


「な、に…」


やっとのことで絞り出した声は、切羽詰まったように掠れていた。


「俺のことをどう思う」
「…どう、って」
「父親のように思うか」
「………ううん」


続けざまに問われたその言葉に、私はあぐねい、たったそれだけを返す。
どうしたの、今日の征陸、ちょっとへんだよ。ピンと張り詰めた空気のなかでそう言えば、征陸は困ったように笑った。少しだけ空気が和らいだ気がしたのも束の間、その表情はすぐに真剣なものに変わる。


「名前はいつも危なっかしくて目が離せなくてなぁ。そのくせ負けず嫌いで、表情がよく変わる」
「…うん」
「名前の笑顔を見るとなぁ、ひどく安心するんだよ。なんなんだろうなぁ、愛おしい…って言うのか」
「……」


難しい顔をしていたんだろう。苦い笑みを浮かべながら、彼は言葉を重ねる。


「親子ほど歳が離れているからなぁ、娘のように思っているんだろうと自分を納得させていたんだが…どうも違うらしい」


そこまで言うと、彼はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。私は固まったままソファから動けない。指先の動きひとつまでも彼に捕らわれているかのようだ。
目の前までやってきた彼はゆっくりとソファに座る私を覆う。
私と彼の距離が一気に近くなって手にじとりと汗が滲む。どうしたことか、ひどく身体が熱い。なんて、理由ははっきりしている。


「名前は俺をどう思う」


吐息を感じるくらい近い距離に、心臓がひどく高鳴っている。彼に聞こえてしまうんじゃないかってくらいに。必死に答えようと口を開くが、まるで金魚みたいにぱくぱくと開閉するだけに終わった。気持ちばかりが溢れて言葉が見つからない。


「…名前、」


…ああ、もう、無理。
わたしは震える指先を叱咤して彼の襟首を掴んで乱暴に唇に噛みついた。ほんの、一瞬だけ。


「……にがい、ね」


照れ隠しにそう告げれば、目を見開いてこちらを凝視していた彼の唇がゆっくりと弧を描いた。


「今ので味がわかるのか?」


にやりと笑いながらゆっくりと顔を下げてきた彼に、私は受け入れるようにきゅっと目を閉じた。再び重なったそれはやっぱり苦かったけど、どこか甘い。カラン、と私の握っていた空になったコーヒーが床に落ちる音だけが、大きく響いた。


染色
130127 余談ですが「今ので味がわかるのか?」と打ったときに予測変換とわたしの指が暴走して「今ので味がわかるのかだぜぇ?」になって征陸スギちゃん化に醜悪な笑みを浮かべたのはわたしですありがとうございました。

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