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人は得てして自分の不幸には過敏なものだ。誰しも幸福を望むけれど、それを実感することにおいてはきわめて鈍感だ。


「しあわせって、なんなのかなあ」


ぽつりと控えめに呟いたそれは、静かすぎるこの部屋では存外大きく響いた。それを拾う人間はこの部屋には私以外には宜野座しかいないわけだが、彼がそんな小言に反応するはずもなく、彼の視線は画面からそらされることはなかった。


「ねえ、ギノにとってのしあわせってなぁに?」


続けて問うてみれば、無駄口を吐くための酸素などここにはないと冷たく一蹴されてしまった。あまりに予想通りの反応に小さく息を吐き出す。


「いいからこたえてよ」
「…誰にも邪魔されずに仕事ができること」


なるほど。つまり黙れってことか。仕事熱心なことで。
宜野座にとって仕事がしあわせなのだとしたら私は一体なんなのだろうとあれこれ考えてみるが、浮かぶものには決まって宜野座がいるものだから頭の中は結局ハテナでいっぱいなのだ。


「……さっきから何なんだ。集中できん」


どうやら無意識にじっと見ていたらしい。ずっと画面を向いていた視線が不機嫌そうにこちらに向けられる。たったそれだけのことで心臓が擽られたようなむず痒い感覚に襲われるのだからまったく救いようがない。こんな冷たい視線で喜べるなら私ってどれだけ安いものなのだろう。


「すこしは息抜きしたほうがいいんじゃない」
「人のことを気にする余裕が今のお前にあるのか」


画面の光に照らされているせいか、顔色が悪いように感じてかけた声は、余計なお世話だと言わんばかりに突っぱねられてしまった。頑固だなあと深く息を吐いてのろのろと立ち上がる。冷ややかな一瞥を無視して近づけば、ぼんやりとした視界でもはっきり浮かび上がる目の下の三日月。


「……すごい隈」


そっと撫でた指はすぐ払われてしまったけれど、予想していたものよりも温かいぬくもりに、ちょっぴり吃驚してしまった。


「余計なお世話かもしれないけど、心配なんだよ」


眉を下げてそう言えば、宜野座の瞳の奥がゆらりと揺れた気がした。だがそれもすぐに冷たい眼差しに戻る。


「お前に心配されるとは、俺も落ちたものだな」


あんまりな言い方に反論しようとすれば、わしゃわしゃと頭を撫でた手にわたしの口から出かかった言葉は空気と一緒に溶けていってしまった。
なによ、子供扱いして。どうせ馬鹿にしたように笑ってるんだろうと、撫でるというよりかき乱していると言ったほうが似つかわしい行為をしている彼を睨みつければ、存外柔らかい表情をしていて言葉をうしなった。
たったそれだけのことでお腹のあたりがあたたかくなっていくのを感じる。ああ、なんだ。わたしが探していたものって、こんなに近くにあったじゃないか。

幸せに底があるなんて誰が言ったの?
130125

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