今まで彼にはオフの概念というものが無かった。
生活の主が野球、もっと言うと野球の合間に生活が存在しているような彼だった。 野球が彼を求め、彼がバッドを握るのは世界の理で、それ以外考えられないほどに。
だからソファに背中を預け、ぼうっとテレビを眺めている哲は何だか見ていて不思議な感じだ。
「ねえ哲」
さして小さくもない私の声は、彼に届かなかった。もう一度同じトーンで名前を呼ぶと虚ろな声で曖昧な返事が返ってきた。
「まだテレビ見るの?」 「ニュースが終わるまで」 「でももう天気予報だよ」
彼は再び視線を戻して、おひさまのマークがずらりと並んだ画面に、驚いたような、また呆れたような顔をした。脇に置いていたリモコンをとってプッツンと電源を切った。彼は何かを吐き出すように長く深いため息をついた。
「気、抜けちゃった?」 「そう見えるか」 「すこーし、ね」
私の言葉に少しだけ反応を見せて、彼は不意にゴツゴツした手を二、三度すり合わせた。部屋の中はもう随分冷えている。 何分か前に乾燥を避けて消してしまったヒーターが私も恋しくて、付けようかと提案したけれど彼は別にいいと言う相変わらず曖昧な返事をするだけだ。
哲の机と私用に出したちゃぶ台に、乗るだけの参考書が散りばめられている。それから室温で緩くなったミネラルウォーターのグラスも。ソファに深く身体を沈めて、何もやる気が起きなくなった午後8時。
普段以上に口数の少ない彼のせいか、それとも中断した勉強のせいか。胸の奥の掴みきれない何処かがじわじわと締め付けるようで、不安や、心配が全部入り混じった気持ちの悪い感覚が拭えない。このぐずぐずした気持ちをあの緩い緩い水で飲み干してしまおうか。何なら氷を入れて。
そう思って、立ち上がるためクッションに手をつく。すると同時に冷たくてかたい、体温を感じた。哲の置いていた手を私が被せるようにして押しつぶしたらしい。
「ごめん、手」 「平気だ」
すかさず退けようとした手を彼がグイッと掴んだ。 それから何かを確かめるようにそのまま指先、指の腹をゆっくりゆっくりすべらせる。 哲、そう呼ぶ私の声が聞こえないという顔でこねくり回し、とうとう手のひらの全部がピタリとくっついた。 間もなく指を割るようにして絡め、五本の指をゆるやかに動かしては私の左手を冷たい感触が這う。 スルスルと皮膚が擦れる音だけ部屋に響いて、何だか気恥ずかしい気すらする。
「あったかいな」 「哲はね」
彼はこっちの気も知らず満足そうな事を言う。 正直どういう顔をしていいのか分からずに、私はまたソファに沈む。
哲の手は特別だ。 たくさんのヒットを生み、 たくさんの光をもたらし、 その分誰よりたくさんの期待がこもる。 バッドを握り、グローブをはめ、走る為の力になる握り拳、全部全部野球の為にあるものだ。
その手が、私の手を繋ぎ止める
何となくそこに躊躇いがあった。 私の入り込める隙間を見つけられなかったから。 なのに彼はいとも簡単にやってのけてしまう。ヒヤリとした感覚は「俺は野球だけじゃないぞ」いつだったか趣にそう言った彼を思い出させて、きっとこういう意味だったのだと考えてみた。
「名前の手は、あったかい」
砕けたやわらかな声、とろんとした眼、短めのまつ毛が上下に揺れる。 哲の今までの奇行はどうやら眠気からのものだったらしい。うとうと、うとうと。深く鼻から息が漏れる。
「…、…った、…だ」
呂律の回らなくなった頃もまだ握る手は緩まずに、徐々に温かくなってきたそれが直、私とおんなじ温度になるだろう。この哲との「何となく幸せ」が私はたまらなく好きで、ぜんぶぜんぶ真空パックして、いつまでも取っておきたいなって、思う。
瞼を閉じたのを見て触れるだけのキスをするとそのまま哲は満足そうに笑った。
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