雪が降ると、決まって名前のことを思い出す。 部屋のカーテンを開け放ち、鳴は薄鼠の空を見上げた。ひとひら、ふたひら、ふわりと落ちるやわらかなこおりの結晶。 どうりで今朝は一段と冷えるわけだ。肩を冷やすな、という原田の声が聞こえるようで、ひとつ伸びをしてから椅子の背にかけたままのウインドブレーカーを手に取る。 あの日もこんな、明るい空だった。鮮明に蘇る白い首筋。結い上げた髪と、寒々しい項にはらりとかかる後れ毛。吐き出された白い息。 一生、忘れることはないだろう。
一際鮮やかに思い出したのは、彼女としばらく会っていないせいだ。軽くランニングをしながら、鳴は並んで立つ後輩マネージャー二人に目をやる。部員と同じ赤のグラウンドコート。一人はあの日の名前と同じように髪をまとめていた。ティーバッティングの準備をしながら、彼女たちは何がおかしいのかしきりに肩を揺らしている。数ヶ月前までそこに加わっていた名前の姿が浮かぶ。 最後に会ったのはいつだったか。街路樹が美しく色づいていた夕暮れ。赤に彩られる街。落ちかけた夕日の光に透けた髪も、赤みがかって綺麗だった。淡く紅を差した頬は、夕焼けを白い肌に映したせいか、それとも。
受験を控えた彼女を誘うのは気が引ける。鳴らしくない、と言われたのは朝食の際、白河にため息ばっかでうるさい、と窘められたときだ。 「お前、名前さん名前さんってあれほど騒いでおいてそこで遠慮するの」 「うわ、あからさまに鬱陶しそうな顔やめて」 白河は値踏みするように鳴を見やると、すぐに目の前の皿に視線を戻した。鳴よりずっと少ない量だ。朝にそんなに食えないとぼやいていた入学当時を思い出す。鳴なら一口で食べてしまうだろう卵焼きの一切れを箸で三等分にし、白河は気が進まないように口に運んだ。鳴も手持ち無沙汰にこんがり焼かれた鮭の身を解す。 「前の方が何も考えてなくてよかったんじゃない」 「それ褒めてる?」 「さあ」 名前が引退する以前、鳴はどれだけ断られようとアピールを繰り返していた。それは名前の拒み方が曖昧で、鳴の望みを絶たなかったせいだ、と白河ですら思う。名前は優しかった。温和な彼女が強く出られないだけだ、とも最初は思っていたが、どうもそういうわけではなかったらしい。現に名前は、国体が終わり引退してから鳴の告白を受け入れている。その話は鳴から死ぬほど聞いた。 「でもさー、名前ちゃん大学行くんだよ? 俺のせいで落ちたとかいやじゃん!」 「名前さんそこまで頭悪くないから」 「知ってるけど!」 鳴は不機嫌そうに箸を温野菜に突き刺した。行儀が悪い、とぼやくが鳴は聞いていない。吉沢と平井が名前を連れて顔を出そう、という話をしていたことを白河は言わなかった。 「鳴らしくないね」 そう投げかけて茶碗を取り上げる。横で騒ぐ鳴を、白河はもう相手にしなかった。無反応を決め込む白河に苛立ちを感じながら、鳴も黙々と食事を進める。らしくない、とはどういうことだ。名前のことを気遣う自分はそんなにおかしいのか、それとも今までは全く気遣っていなかったというのか。白河から返答はない。自分で答えが出るわけもない。ぐるぐるとその意味を考えながら、鳴は白河の澄ました横顔を睨みつけた。
小さく首を振る。名前の意図がわからないほど、鳴も子供ではない。練習もきちんとこなして、彼女にうつつを抜かしたせいで、と言われることだけは絶対にないように結果を出したい。 ストライドを広げる。飛ばしすぎ、と後ろの平野から声がかかる。ペースを上げたまま、鳴はラスト一周を走り切った。 「あ、鳴さん戻ってきた」 ブルペンから顔を出した多田野が、膝に手を置いて息を整える鳴を見て声を上げる。なんだよ、と返すのも億劫で、鳴はじっとりと多田野を睨んだ。キャッチャーにしては頼りない印象を受ける身体の影から、誰かが躊躇いがちに顔を出す。 「なっ……あ、え!? 名前ちゃん!?」 「久しぶり、鳴くん」 来ちゃった、と名前は照れくさそうに笑う。多田野を押し退けて彼女の前に立つと、彼女はまたくすくすと笑い声を零す。 「樹! 俺ちょっと休憩!」 「言うと思いました。五分でいいですか」 肩を竦めた多田野を見て、鳴は名前の手首を掴む。足りない、と言わんばかりに多田野を見上げ、しれっと言い放ちながらベンチに足を向けた。 「三十分」 「ちょっと名前さんなんか言ってやってください」 「ごめんね、十分で戻すから」 ちゃっかり五分延ばした名前の強かさに多田野は舌を巻く。遅れて戻ってきた平野も困ったように笑った。 「あれでちょっとは持ち直すといいんだけど」 「どうでしょうね、あんまり調子に乗られても困りますから」 二人の消えたベンチに目を向けて、平野と多田野はどこか微笑ましそうにそう言い合う。 「敵わないなぁ、あの人には」 ブルペンでそんな会話がなされていることなど露知らず、鳴と名前はベンチの隅で顔を見合わせていた。鳴が何事か喋りかけては口を閉じる様子を、名前はにこにこと見守っている。 「あの、名前ちゃん」 「なぁに」 言いたいことは山ほどあった。言葉にならないそれを鳴はもどかしく思う。名前の手が肩に伸びて、うっすらと積もった雪を払い落とした、近づいた身体を反射的に抱きしめる。冷たい、とぼんやり思った。名前の肩に顎を乗せる。ふわりと香る匂いが好きだった。鳴くん、と彼女に呼ばれてやっと顔を上げる。名前は無言で時計を指した。あと七分。 「……会いたかった」 「メール、くれればいいのに」 「忙しいかと思って」 遠慮することないのに、と名前は笑った。雪で濡れた鳴の髪を撫でる。とはいえ、遠慮していたのは名前も同じだ。だから今、こうして鳴の体温を感じられることは何にも代えがたいことだった。 名前の丸く薄い肩越しに粉雪の降り積もるアスファルトを眺めながら、鳴はぽつりと零す。 「ねぇ名前ちゃん」 「ん?」 「俺が名前ちゃんを見つけたときも、雪が降ってた」
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