正面に座った枡はあたしになんて見向きもせずにカバンの中から勉強道具を取り出して机に広げた。

「…またぼんやりしてんな。早く教科書出せ」

それは至極当たり前のようで、だからこそあたしはその様子をきっとアホヅラで眺めてしまっていたのだろう。
イラついたように机を二度、その太い人差し指で叩いた枡のおかげでやっとあたしは意識を取り戻し、「ごめん」という小さい声とともに慌てて自身も机の上に教科書を並べる。

『枡君てやっぱり真面目なんだね』

半笑いで先日友達に言われた言葉が頭をよぎった。

「あの、さ」

あたし達はかれこれ三ヶ月以上付き合っている、世間で言う恋人とか彼氏彼女とかの関係で、そこに疑いの余地はないはずなのに、未だになんの進展もなかった。
キスはおろか手を繋いだことすらない。

「…えっと…。や、やっぱり、なんでもない」

寮生の枡と一緒に登下校することは出来ないし、受験生だからという理由で近くの公園とファストフード店以外出歩いたこともない。
友達に言われたその一言が引っかかって、勉強を一緒にしようという誘い文句を武器にここ何日か枡をあたしの家に招き入れるようになった。
けれど二人きりの絶好のチャンスでさえ枡はあたしに触れもしなかったし甘い言葉の一つもかけてはくれない。

『名前、女と思われてないんじゃないの?』

冗談に聞こえない冗談に、あたしはこの状況になっても黙々と勉強しかしない枡に、自身の貧相な胸に、スカートを履いても似合わない大根足に、冴えない顔に、とうとう心が折れかけていた。
あたしの弱々しい声に枡が首を捻る。
また怒られるのかと身を構えた。

「なんだそれ。お前がそういう時は大体なんかある」
「…ほ、ほんとになんでもないよ」
「成績が落ちたとか?」
「違うよ、成績とかのことじゃなくて」
「…じゃあなんだよ」
「…い、いや、なんでもないって言ってんじゃん」
「成績のことでないなら、なんだよ」

早く言え、と言わんばかりの鋭い睨みとイラついた声に俯いた顔が上げられない。
こうなると枡は結構しつこかった。
ちらりと様子を伺うと、やっぱり言い逃れできなさそうなくらいこちらを睨みつけている枡と目が合ってあたしは余計に身を縮こませる。

「…友達に、言われたことで」
「はぁ?何言われたんだよ」
「別に、大した事じゃないんだけど」
「だから、お前がそうやってはぐらかす時は大した事の方が多い」
「…ま、枡とのこと」

ぽつりと呟くと枡が小さく目を見張った。

「俺と勉強してると名前の成績が落ちるとかか?」
「え?いや、そんなんじゃなくて」
「あいつら俺のこと悪く言ってんだろ。一回野球部と揉めてから俺のこと目の敵にしやがって。悪い、教室とかで話さない方が無難かも、」
「ちがっ、そういうことじゃなくて!」

早口でまくし立て、突然あたしに頭を下げた枡にあたしは思わず大きな声でその先を遮ってしまった。
小さく口を開けて驚いている枡と目が合って、あたしは慌ててまた小さくなる。

「…違うの、あの子ら、あたしと枡のこと応援してくれてるよ」

確かに枡とあの子達はあまり仲が良くない、
けれど最近は親身にあたしの相談に乗ってくれるし、枡のこともそういう風に悪く言うことはなかった。

『ちゃんと色気出して、襲いたくなるような女にならないと』
『枡君きっと奥手なんだよ』
『名前のこと、大事にしてくれてんじゃん』

色気のある女ってなんだろう、また友達に言われた言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡って、あたしは言葉に詰まってしまった。

「俺とのこと?」
「…うん」
「悪いことじゃなくて?」
「悪いことっていうか…、応援、みたいな」
「応援…って、何を頑張りゃいいんだよ」
「……さ、さぁ」

言えない、まさか勉強にかこつけて二人きりの空間に連れ込めばすんなりと枡はあたしを襲うとか適当なことを言われたなんて。
ましてやそれをあたしも期待して、今日まで何度も期待して、それを望んでいるなんて言えない。
顔が熱くなるのが分かった。
思わず俯くと、少しして枡の深いため息が聞こえてきた。

「…あのなぁ」

枡は考え事をする時ペンをコツコツと鳴らす癖がある。
勉強をして行き詰まるとたまに無意識にやっていた。
その音につい反応して視線を上げると、視線を泳がせた枡が細めた目で机を睨んでいる。
枡ははぁー、とわざとらしいため息をついて一度呼吸を整えた。

「…頑張っていいのかよ」
「…え」
「お前んち、たまに親が確認しに来るよな。菓子だのジュースだのにかこつけて」
「確認?そりゃ、お客さんにお菓子とか出すの当然って母さんが、」
「…バカじゃねぇの。見張られてんだよ、俺が」
「え、」

「大事な娘に手を出すなよってな」

ふぅ、と深く息を吐いた枡が小さく頭をかいた。

「牽制されまくってる場面でわざわざ走るバカいねぇよ」
「…大事な娘って、手を出すって、え、な、何、」
「お前が友達に言われたの、どうせよく遊びに来てるのに何で何にも進展ないのーとかそんなんだろ」
「えっ」
「バレバレなんだよ。つうか女の詮索なんて話のネタにしかされねぇんだから適当にはぐらかしとけ、バカ」

枡があたしの額を人差し指で弾いた。
鈍い痛みはとてもとても小さくて、豪快な音だけが響く。
あたしはデコピンをされた額を抑え、頬杖をついてあたしを睨む枡を見つめた。
どこか罰の悪そうな顔をした枡は、面倒臭そうに舌打ちを一つ、小さく零した。

「我慢するこっちの身にもなってみろ」

気付けばあたしと同じかそれ以上に枡の顔も赤くなっていて、すぐに外された瞳が揺らいでいる。
突然どくりと鳴った心臓に、友達の無責任な言葉が反芻した。

「えっ、がっ、我慢しなくていいよ!」

机を叩くようにして身を乗り出したあたしに枡はもちろん、あたしでさえも少し驚いてしまって、けれどその分近くなった距離に、思わず見つめあってしまった状況にもう引っ込みがつかない。
一瞬後ろに引いた枡も、あたしの言葉に笑いそうになった口元をそのままに机に身を乗り出していた。
机が邪魔だ、そう思った時には既に枡があたしの頬に触れ、絡めた視線をそのままにゆっくりとあたしの顔を引き寄せていた。
熱い掌があたしを覆う。
逃げられない快感に、初めての興奮に頭が一瞬にして真っ白になる。
お互い同じタイミングで目を閉じた時、唇に小さく何かが触れたのが分かった。

あたしやっと、キスしてもらえるんだ。

ふわりと体が浮きそうになった時だった。


「名前、開けるわよ」

心臓が飛び出たかと思った。
本当に、飛び出たと思った。
示し合わせたかのようにお互い一瞬で元の位置に戻り、そのありえないほどの素早い動きとは裏腹に何事もなかったかのように枡は涼しい顔でノートを広げた。
あたしはといえば教科書を開いて、ついでに蛍光ペンまで握りしめていて、何の躊躇もなく入ってきた母に「ありがとう」と笑顔まで作ったから自分でも内心物凄く驚いて。
蛍光ペンなんてどこにあったんだろう。

「勉強、進んでる?」
「うん、大分ね」
「そう。紅茶温めたから、休憩の時に呼んでね。持って来るから」
「ありがとうね、母さん」
「いえいえ。勉強、頑張ってね」
「いつもありがとうございます」

にこやかな母になんとも冷静に枡もあたしも一辺倒の事を応えて、そのにこやかな背中を見送った。
部屋の扉がパタン、と静かに閉められる。
階段を降りる母の足音を二人でじっと耳を澄ませて聞いてから、お互い顔を見合わせ、同時に大きくため息をついた。

「ほらな」

心底疲れたように枡が壁に背中を預けて大きく息を吐く。
その様子に、それまで緊張しきっていたあたしは思わず笑ってしまって、枡もつられて小さく笑った。

「もっかいしようよ」
「バカか、俺の心臓に悪い」
「えー…、お願い」
「止まらなくなりそうだしやめとく」

もう一度息を大きく吐いた枡が今度は本当にノートを広げて教科書に視線を向けた。
そうしてやっと、枡の言葉に固まっているあたしに気付いて、心底呆れたように呟く。

「…トマトみてぇな顔になってるぞ」
「…えっ、うそ!だ、だって!そんなこと言うから!」
「分かった分かった」

ひらひらと手を振った枡に益々あたしの顔は熱くなるばかりで。
そんなあたしの頭を枡は持っていたペンで軽く叩いて「落ち着け」と笑った。