「よーいちー?」

 しんとした家の中によく伸びた声が響いた。読んでた漫画を置いて起き上がり、めんどくせーなと思いながらも無視はできず玄関に向かうと、少しだけ開けた扉から声の主は顔を覗かせていた。にわかに笑顔になりながら「やっぱいた!」とか何とか言って、住人の許可も取らず勝手に家に上がり込む。おいおい。

「なんか用すか」
「ちゃんと鍵閉めときなよ。不用心」
「はあ」
「キッチン借りるね」

 ばたんと玄関の扉が閉まり、施錠されていない鍵が目に付いた。最後に出掛けたじいちゃんが閉めていかなかったのだろうと思い、言われた通り手を伸ばしかけて留まる。家には俺とこの人しかいない。さすがに、なんつーか。気にすることでもないような気はしたけど、鍵は開けたまま勝手に人の家の台所へ向かう後ろ姿を追った。右手に持ったビニル袋をがさがさ言わせている。

「どうせお昼まだでしょ? そうめん食べよ」
「そうめん? 今の時期に?」
「お中元でもらったやつ消化しないとって思い出して」
「なんでわざわざ来てんすか」
「今家に誰もいなくてねー、洋一も一人かなって思って。今日町内会の集まりあるからおじいさんそっち出てると思ったし」
「……」
「あれ、そうめん嫌い?」
「別に嫌いじゃねーけど」
「よかった」

 よくねーよ。 こっちを見ていないのをいいことに、口には出さないが顔を顰めてみせる。もちろん反応はない。隣に住むこの人は昔から割とそういうことが多くて、人の部屋で勝手に漫画を読んでいたり、気付けば食卓を囲っていたりする。親同士も知り合いだからか、家に上がることに何の抵抗もないらしい。でかい鍋に水を張り火にかけて、「めんつゆあるー?」と尋ねる姿は呑気なものだ。冷蔵庫を開けて確認すると、それらしき瓶があったので取り出した。

「お、よかった」
「名前さんも食ってくんすか?」
「うん。だめ?」
「だめっつーか、茶くらいしかないっすよ」
「お茶でいーよー。ジュース飲んだりしないし」

 鍋の中の水が沸騰すると持ってきたらしいそうめんを投入していたが、やけに量が多いように見えた。一束一人前だと思ってたけど、そうじゃないのか。何も言わないでいると次いで菜箸でぐるぐるとかき混ぜる。渦になる鍋の中をぼんやり眺めていたら、段々と渦の速度が落ちて、ついには消えた。名前さんは俺がなんとも言えない気持ちになっている間に探し当てたらしい笊をシンクに置いていて、突っ立って見ているのもなんなので適当に使えそうな皿を用意した。あとそうめんってなんだ。ネギとかか。野菜室を覗いたがそれらしきものは見当たらず、「ネギないっすよ」と声を掛けたら少し感動したように声を上げた。

「さすがだなあ」
「は?」
「いやいや。ネギはいーよ、洋一が欲しいなら家から取ってくるけど」
「俺はいいっすけど」
「じゃあ薬味はなしで」

 数回茹で加減を確認し、火を消して鍋を持ち上げる。離れてねーとまるで子どもに言うみたいに注意を促すから、いくつだと思ってるのかと聞きたくなった。湯気を上げて湯が捨てられ、勢いよく出された水道水がそうめんを冷やす。「熱取ったあとにもみ洗いすると美味しくなるらしい」「もみ洗いって」「洗濯かって感じだよね」笑いながら適当なところで水を止め、水気を切ろうと大袈裟に笊を振るもんだからこっちにも水が飛んできて、思わず眉を顰めるとごめんといい加減な謝罪が飛んでくる。こっち見てないのになんで分かんだ。さっきのもバレてんじゃねぇかと一瞬脳裏に過ったが、「よし、できた」という声にかき消された。明らかに均等ではない量に分けて皿に盛る。そうめんだけでこんなに食えってか。

「やっぱりそうめんはいつ食べてもうまい」
「そーすか」
「なんか今日テンション低くない? 風邪?」
「……」
「もしかしてほんとにそうめん嫌いだったとか?」
「違いますって」

 なんてことないことだった。昼下がりに男一人の家に上がってそうめんを茹で、一緒に食う。それがこの人にとってなんでもないことなのだと気付かされる。もうずっと前からそうだったことを、今考えても何度考えても同じ答えしか出てこない。もっともガキの頃からそういう人で、もどかしく感じると同時に変わらないことに安堵もする。何年経っても近付くことのない年の差に、それでも変わらないことにどこかで安心もしていて、反対にそれだけじゃないとどうしても期待したい。でも結局期待や願望はそれだけでしかないから、望まれてもいないことを声に出して崩れるくらいなら、このままでいい。
 ほとんど食い終わってからまだ半分ほど皿に残っている目の前の相手を見てみる。肩とか腕とか目とか、あと首とか、それより下とか。自分とは違う全てをわずらわしいと思いながら、そんなものを持つこの人を凝りもせずに欲しいと思うから目を逸らした。

「そういえば、東京行くんだってね」
「あー、……まあ」
「洋一はどんな高校生になるんだろうねえ。ヤンキーかな」
「野球しに行くんだからそこは高校球児って言ってくださいよ」
「球児か。かっこいいね」

 何気なく言ってから、「お腹いっぱいになってきたけど食べる?」と付け足す。いらないっす。簡単に答えると、残念そうにそっかあと言いながら再びそうめんを啜った。食う量が違うとか、いつの間にか変わらない背になっているとか、全部が今だからまだ新鮮なだけかもしれない。体型も変わって、落ち着きが出て、縮まらない差に気分が悪くなる。それらに慣れる日もそのうちに来るんだろう。いつか忘れるようなことだとしてもどうしようもなかったし、覚えてられんならその方がいいのかもしれないとも思う。

「洋一ももう高校生か」
「まだ中三ですけどね」

 おんなじままではいられないねえ。
 どこか、知らないところで何かを諦めたように言われて本当にどうしようもなくなってくる。「変わんないっすよ、高校行くくらいで」平気な振りして答えてみるけど、そうだといいなと笑うこの人はそうもいかないのだと知っているみたいだ。変わることは誰にだって分かることで、変わってほしくないと思うのも同じだろうけど、そんな普通のことでは言い表せないくらいどうしようもなく言葉が分からない。ただ同じくらいこのままでいられることを望んでいる。壊すなんてしないでおくから。

「またそうめん食べよーね。いっぱいあるから」
「そっすね。結構うまかったし」
「今度は洋一にネギ切ってもらおう」
「……いーっすけど」
「うん」

 気付かない振りをしているうちにいつの間にか変わってゆくのだろうけど、せめてそれまでは、どうかこのままでいさせてほしい。
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