「あのさ、好きなんだ」

 唐突に鳴さんの口から告げられたその言葉に、部の規則に従って多田野樹と名前が書いてある保革油の蓋が地面に落ちそれを皮切りにいつも通りの騒がしさで賑わっていた談話室の空気が凍った。

そうして凍った空気の中でスコア整理のために残っていた談話室に居る唯一の女子マネージャーである名前さんに部員全員の視線が注がれたのはまず間違いないだろう。首元まで真っ赤にした名前さんは間抜けな顔で「え、」と小さく呟くだけだ。俺たちはどうすればいいのか、色恋沙汰に無縁な野郎共で結成された野球部面々は黙っていたほうがいいのか喋ったほうがいいのかそれともここから撤退したほうがいいのかも分からずただひたすらに名前さんを見る。

「返事は?」
「……あ、え、」
「エースからの愛の告白だよ?」

唇を前につきだした鳴さんの怪訝そうな顔をよそに名前さんはもう完全に動けないらしく床に散らばったスコアを拾うこともなく棒立ちしたまま「め、い?」とやっとのことで二文字を口にする。鳴さんはそれ以上はなにも言えないでいる名前さんにもう辛抱ならないと言わんばかりに大股で近寄り、自らのジャージの上着をまるで逮捕された犯人が建物から警察に連れて行かれるように頭に被せた。誰かがぼそりと「猫か」と呟いたけれどなんでそれが猫なのかも俺を含めた過半数はわからずただ名前さんの背中を撫でる鳴さんを俺達は黙って見ていることしかできない。


 もし将来俺に好きな人が出来たとしても鳴さんみたいに野球部員が居る前で好きとかそんなことは絶対に口に出来ないだろうし第一こんな談話室で告白なんて罰ゲームでも無理だな。ゆっくりと部員たちが思い出したように、まるでセーブのために一旦中断したゲームが再び動き出すかのように動き出し俺もつられるように鳴さんと名前さんから視線を外して足元に落ちた保革油の蓋を拾った。寮のオマケみたいな小さなテレビからお笑い芸人の賑やかな声が聞こえるので蓋を保革油の隣に置いてチラチラそちらに目をやりながらグローブの手入れをする。

「バカ!!!」

先程までの賑やかさを取り戻しつつあった談話室がまた一斉に静寂を帯びる。名前さんは声を張り上げて再び浴びせられる部員たちの好奇の目など気にしていないという風に俺たちに背中を向け、ズンズンといつもより荒っぽく部屋を出る。鳴さんはその後ろ姿を見つめて、え? と首を傾げたからすかさず茶化しに先輩たちが群がる。

「お熱いねえー」
「なにしてんの」
「思ったから言っただけじゃん!!」

なんで名前怒ったの!! とぷりぷりと怒りながら言う鳴さんに気づかれないようにため息を1つ。俺はグローブと保革油を持ってそっと席を立ち上がり空気の落ち着かない談話室から出た。


 談話室から出て、廊下の少し奥にある窓を開けて顔だけ出す。夜の空気が生ぬるく頬を舐めとるみたいで気持ち悪かったけれど、外でしゃがんでいる名前さんはもっと気持ち悪いだろう。「樹、」と名前さんは少しだけバツの悪そうに微笑む。この人も災難だなあ。

「鳴さん、すごいですね」
「……ほんっと、恥ずかしいよ」

名前さんが長嘆息を漏らすから俺がゆるやかに苦笑いを浮かべて夜空を見上げる。月が綺麗に丸くなっていて「満月ですね」と話題をかえると名前さんは「ほんとだー」と一緒に空を見上げる。

「綺麗だねー、お月見したいね」
「します?」
「アハハ、鳴がまたこんな顔するさ」

人差し指で目を釣り上げさせた名前さんは思いのほか鳴さんに似てる。似てますね、と言いながら笑うと名前さんも笑ってそれから2人でひとしきり笑うと名前さんはふうと息を吐きだした。

「ありがと、樹」
「なにがですか?」
「元気つけに来てくれんでしょ」
「……トイレ行こうとしたらいただけですよ」

名前さんは満面の笑みで笑うから、今度は俺が溜息を吐きだす。「勘違いしないでください」と言ったら「ツンデレか」と笑われてなんだか居心地が悪い。逃げるように視線を外して、それから遠くで目を凝らしたらようやく見えるくらいの人影に眉を潜める。どうやらやっぱり俺が子供の頃と変わらず主役というのは遅れて登場するものらしい。内心で舌打ちをしながらやはり歴史というのはそう簡単に変えられないのだなと変な納得をして俺は会話をやめた。

「鳴さん、来たみたいだから」
「ほんとだ。ありがと」
「いいえ。お幸せに」

 その言葉は俺の精一杯の皮肉だったのかもしれない。俺の言葉に名前さんは照れ笑いを浮かべて、それから鳴さんのほうに駆けていった。だから俺はその背中を見送ることなくそっと鳴さんに気づかれないように廊下の窓を閉めて、少しだけ満月を恨めしく思ってみたりして。


「……あのさ、好きなんだ」

届かないその言葉になにかを期待しながら窓の外を一瞬だけ見て、見えた2人の影が1つになった瞬間に見るんじゃなかったとグローブに視線を投げてやっぱり今更なんだなってそう思った。
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