こいつはてっきり稲実に来るもんだと思っていた。――いや、正しく言えば、こいつは俺について来るもんだと思っていた。そう信じて疑わなかった。こいつが俺の傍から、しかも自らの意思で離れて行くなんて、天変地異が起こるくらい有り得ないことなのだと、今思えばかなり自惚れていた。ガキの頃から何もかも、全てに於いて一緒だったこいつとの間に目に見えない距離以上の物理的な距離が生まれるなんて、当時の俺に想像出来るわけがなかった。
 入寮の為に家を出る前日、餞別だと言って綺麗にラッピングされた包みを持って来た名前を、俺は壁に押し付けて問い質した。何で稲実じゃねぇんだよ、と。何で俺の傍を離れたんだよ、という本音が喉を迫り上がって来たが寸でのところで飲み下し、怯える様子の全くない、何を考えているのか幼馴染である俺ですら分からないような無表情のまま見上げる彼女を睨みつけた。

「何で私が稲実に行くと思っていたの?」

 そう言って鼻で笑った名前の目はひどく冷たかったのを鮮明に覚えている。嘲笑するように口角は持ち上げて、押さえつける俺の手を無理矢理払い除けてあいつは部屋を出て行った。フローリングの上に虚しく横たわる包みは、きりきりとした胸の痛みのせいで、目に留めるどころか翌日の朝になるまで手に取ることも出来なかった。
 見送りに来なかったあいつと再会したのは、一ヶ月後のことだった。その時あいつは、名前も顔も知らねぇ男の隣で、凄く楽しそうに笑っていた。身につけている制服が何処の学校のものか分からず、雑用をしていた樹を呼び止めて訊いてみれば、何故か樹はそう間を置くことなく「A校の制服ですよ、あれ」とすんなりと答えやがった。樹の口から出て来た学校名には聞き覚えがあるような気がしたが思い出せず、しかしあいつが進んだ学校が何処にあるかだとかどんな特色があるだとか、そんなことはどうでも良かった。名前の口から聞いてない。何であいつはその学校に行きやがったのか。その時の俺には、それが腹立たしくてならなかった。
 次に名前の姿を見かけた時、あいつは何故か一也と一緒にいた。「なにお前、一也と浮気でもしてんの?」と冗談を言いながら二人の傍に歩み寄ろうとした瞬間、唐突に一也の口から「鳴」と俺の名前が出て来て、咄嗟に近くにあった物陰に身を潜めた。何で俺がこんなことしなきゃなんねぇんだよ、と自分自身に突っ込みながら耳を峙てる。一字一句、全て俺の耳にあいつらの会話は流れ込んで来た。

「俺はてっきり、稲実に行くもんだと思ってたんだけど」
「鳴にも言われたわ、それ」
「だろうな。あいつ、お前が離れてくなんて思ってもいなかっただろうし」

 一也と名前が仲が良いのは知っていた。中学の頃から連絡を取り合っていたのも知っている。以前はそんなことあまり気に留めなかったが、名前とはあれから全く連絡を取り合っていないせいか、あいつらの仲の良さがいつも以上に際立って見え、形の歪んだ黒いものが胸の奥底から込み上げて来る。嫉妬。その二文字を、認めざるを得なかった。

「――で? 何であいつについて行かなかったわけ?」

 一也の声に、苛立ちが増す。何でお前があいつの傍にいるんだよ。俺じゃなくて、お前が。胸中で悪態を吐き、拳を握り締める。これ以上聞いていたって腸が煮え返るだけだと思い、立ち去ろうとした――その瞬間だった。

「好きだから」

 耳に届いたのは、不純物が一切含まれていないほどに澄み、しっかりと自分の意志を持った凛とした声だった。その声に身動きを奪われ、無機質なコンクリートの壁を背にしたまま立ち尽くす。頭の中で、あいつの声が、あいつの言葉が、何度も繰り返された。繰り返される度に、土が水を吸収するように、それらは頭の中に深く沁み込んで行った。

「鳴の野球も、鳴自身のことも好きだから。だから稲実には行かなかった。鳴についていかなかった」
「普通さ、傍で支えたいとか思うもんじゃねぇの?」
「まあ、普通はそうなんだろうけど。でも私は、好きだからこそ別の角度で、少し離れたところから彼の野球を観たかったし、好きだからこそ、彼に勝ちたいと思った」




 あの時名前は、「好きだから」と言った。好きだから俺の傍を離れたのだ、と。俺の野球も、俺自身のことも好きだから。それを捻くれた考えだとは言わないが、馬鹿な奴だなとは思う。何だよ、それ。あの時零したことと同じことを胸中で再び呟いて、足下に踞る小さな体を見下ろした。小刻みに震えているのは目の錯覚なんかじゃないだろう。時折くぐもった嗚咽が聞こえてくる。馬鹿だな、ほんと。馬鹿だよ、こいつは。そう胸の中に零して、膝を折った。

「お前が一番、俺の野球を知ってたくせに」

 手を伸ばそうとして、思い止まった。伸ばしかけた手が虚しく宙を掴む。嬉し泣きとは違う、悔しさの滲む泣き声。他の奴の為に流れて行く涙。女物のローファーの先に、いくつもの濃い染みが出来ていた。
 五回の裏、残り一アウト。約十八メートル先でどっしりとミットを構える雅さんを見据えながら、ほんの少しだけ、名前の顔を頭に思い浮かべた。目の前にいるバッターを俺が仕留めれば、あいつは顔を歪めるだろうか。後悔するだろうか。ボールが指から離れていく瞬間、「好きだから」というあの時に聞いた言葉が、頭の中に響き渡った。好きだからこそ、勝ちたい。ずっと俺の傍で俺の野球を観て来たくせに、何で、俺に勝てると思ったんだろうか、こいつは。

「負けたくなけりゃ、稲実に来れば良かっただろ。俺について来れば、甲子園だって夢じゃないんだぜ」

 今まで伏せていた顔をゆるゆると持ち上げ、名前はぎろりと鋭い目で俺を睨んだ。赤らんだ目元は涙で濡れ、頬には涙のつたっていった痕が残っている。ぷっくりとした雫が目尻から流れ落ち、思わず手を伸ばしたが、名前はその手を弾くように払い除けた。

「鳴のそういうところ、嫌いよ」

 嫌いじゃねぇだろ。お前はそういう俺を買っていたくせに。そういう俺を好きなくせに。嘘を吐いたって、憎み切れていない目が全てを物語っている。素直になれば良いのに。けれどこいつのそういうところも好きだと思ってしまう俺は、重症だと思う。強がりなところも負けず嫌いなところも――俺に勝ちたいと勝負を挑んでくるところすら、愛しい。端から見れば、俺たちの関係は歪んでいるのかもしれない。ただの《幼馴染》や《恋人》という言葉だけでは、この関係を言い表すことは出来ないと思う。こいつは幼馴染でもあり、恋人でもあり、そして敵でもある。グラウンドに立ってプレーをすることは出来ないが、ベンチから、投手である俺をどうやって喰ってやろうかと舌舐めずりしている様が容易に想像出来た。名前は昔からそうだった。そして俺はそんなこいつに魅力を感じて、心を奪われたのだ。

「俺はお前のそういうところ、嫌いじゃないぜ」
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