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BAD SETTING


燭台の蝋に灯った炎が手にしたナイフに反射する。磨き上げられたシルバーのナイフ、その背に人差し指を這わせると目の前に置かれた身肉へと刃を滑らせた。グッと力を入れて前後に動かす度に汁が滴り、蝋の橙と混じった赤い身が姿を見せた頃には、皿の真ん中に同じ色をした汁が溜まっていた。まるで血溜まりのようだ、なんて食事時にそぐわないことを考えながら左手に持ったフォークで、切り取った身をゆっくりと口に運ぶ。すると目の前の男がニタリと口角を上げた。

「ここの食材はどれもシーナで取れた新鮮な物でね、美味しいでしょう?」
「大変美味で飲み込むのが勿体なかったです」
「この焼き加減はレアって言うんだよ?外じゃなかなか食べれないでしょうから...ご存知なかったでしょう」
「ふふ、勉強になります」

右手に持ったナイフをそっと置き、口元に手を当てながら笑ってみせると彼は「そうでしょう!」と愉快に笑い声を上げ、同じレアに焼き上げられた牛の肉を大きな口で頬張って見せた。続けてワイングラスを仰ぐその隙に、ナプキンで口元拭うフリをして小さく息を吐く。そして、グラスを置き終える前に再び鼻を高くし“世間話”を始める彼へとゆったりとした笑みだけを送った。


「...ふざけんな」

「じゃあ馬車が到着したからお先に失礼するよ」と、だらしない笑みでドレスの胸元に手を突っ込んで来た男に対して溢れた言葉は随分乱暴なものになってしまった。しかし、目の前の防護柵の先広がるのは煉瓦造りの上等な橋の掛かる運河で、男はとうの昔に去った後だ。穏やかな河の水面には片割れの居ない月が曇りなく浮かんでいて、それを顰めっ面で眺めながら、手と共に捩じ込まれた二つ折りのメモをネックから手を入れて取り出した。その中には赤いダイヤの嵌め込まれたブローチと共に、メッセージが添えられている。

「“エリーザ、素敵な夜だったね。これは母の形見だが君に託すよ...僕は君に本気だからね”......本気なら名前くらい覚えろっての」

ぐしゃっと苛立ちのままにメモを手の平で握り潰し、同封されていたブローチをじっと眺める。母の形見と書いている割には使用感がなく、丸裸で渡されたそれに「お母様はさぞ悲しまれてることでしょうね」と溜息を吐いたけれど、ハンドバッグを馬車に預けて来たのを思い出してとりあえずドレスに装着することにした。話だけじゃなくて嘘のセンスもないし、しかもメモに振ったのだろうお香は菓子屋に信煙弾を撃ち込み強盗しているような、甘さと煙たさのアンバランスさに胸焼けを禁じ得ず、眉間に皺が寄る。

「ハァ...馬鹿らしい...」

河から背を向け、その背を柵に預けながら呟くとふっと息吹の様な風に煽られて後毛が舞う。それを目で追う内に自然と視線は宙へと向かい、やはり空には半分欠けた月が輝いている。きっとハンジ...分隊長は風流に空を見上げることなんてなく今も研究室に篭っておられるんでしょうね?と、自然と浮かんでしまった彼女の顔に対して嫌味を投げるも、気持ちは全く落ち着いてくれなかった。


「よっよぉリア!今日も相変わらずキュートだな!なっなあ?アーベル?」
「だっだな...!朝から眼福だぜ!」

その日は朝から妙に周りの空気が可笑しかったのを覚えている。
朝の鍛錬の後にミケとナナバと私で軽くミーティングを終えて三人一緒に食堂に入った瞬間、中に入るのを妨げるかのように現れたゲルガーとアーベルにそう言われ「おはよう、ゲルガーにアーベル。朝から二人揃って酒盛り疑惑ありって兵長に報告しておくね」と妙なノリを見せてくる二人に適当に返すと「リアさんにナナバさんおはようございます!良ければあっちで一緒に食事しましょう〜!」とペトラが現れると即座に腕を絡められる。そんなペトラに頷く間も無く私は奥の席へと連れられ、一方のミケとナナバはリーネに耳打ちをされた後、彼女に着いていってしまった。朝から何事だろうと考えながら視線を泳がせていると、キョロキョロと何やら辺りを見渡すポニーテールの後ろ姿が見えて、私はすかさず空いた片手を挙げた。

「おはようハン...」
「ここに一緒に座りましょう!オルオは食事持ってきて!」
「フッ...女房になる前から尻に引くなんてさす...」
「そういうの本当にいいから」

ストンと二人並んで腰を下ろすとやっとペトラの腕が離れ、再びハンジを目で追いながら腰と手を挙げようとすると「リアさん!ちょっとお聞きしたいことがあって、平地における巨人との遭遇から誘導のことなんですけど〜〜」とペトラが訊ねながら私の両手を掴み、結局立てず挙げれず終いになる。そしてその質問に対しての見解を述べたりオルオが運んできてくれた食事を採っていると、気付いた時にはハンジの姿を見失っていた。...まあ後で会った時に話せばいいんだけなんだけど、同期としてやっぱ姿を見たからには挨拶しなきゃ気が済まないって言うか、あのキョロキョロももしかしたら私を探してたかもだし、後パッと見た感じ後毛が出てた気がするから......とハンジに対してほんのちょっとだけ思ってるうちに朝食の時間は終わった。


(あっハンジとモブリットだ)

何だか今日は隊のみんながちょっとよそよそしかったような...と思いながら勤務上がりに外の空気を吸うために一人兵舎の中庭に出ると、ハンジとモブリットが何やら話していた。いつも通り飄々としたハンジと焦りを滲ませたモブリットの姿は“ハンジ分隊長に振り回されるモブリット副隊長”という、もはや兵団内では名物になってる代物で、またやってるな〜と思いながら二人へと近付いた。

「分隊長!もう一度考え直した方がいいかとおも....」
「またハンジは何モブリットを困らせてるの?」
「!リアさん...!?」

私の登場にこれでもかと目を開いて驚いたモブリットに「何よ、霧で視界不明瞭の中突然巨人が現れたような顔して」と笑いながらジョークを飛ばすと、「リア!ちょうどよかった!いや〜本当は朝話したかったんだけど食堂で見つけらんなくて〜」とハンジが笑顔で私の両手を握った。ねちょっと、泥で汚れてるだろう手の感触がすぐに伝わってきたけれど、相手はハンジで一度や二度のことじゃないから別に特段気に留めない。

「四日後、昼から時間空けれる?」
「まあ...今度埋め合わせするってミケに伝えたら大丈夫そうかな」
「よかった〜」

なんだ、何かと思えば外出のお誘いか。いやでもハンジのことだから研究に対する私の見解を聞かせて欲しいといった類の話かもしれない。まあそうなったらそうなったで適当に切り上げるように持っていって、夜は外でゆっくり食事もありかな。給与もハンジの研究費への支援かお高めな石鹸を買うくらいしか使い道なかったし、久々にお肉とか。

「リアに会いたいって貴族の人がいるから一応お見合いって形で場を設けてもらってさ。場所はシーナのストヘス区のレストラン。相手方に会うのは夜なんだけど準備や移動に時間がかかるだろ?」

ハンジと出掛けるのも久々だし、ってまあハンジが特別って言うより気の知れた友達と出掛けるのが楽しみってだけだし...そうお肉、私は肉が楽しみなのであって...と、自然と踊る胸に手を引かれて思考も共にダンシングしていた矢先の言葉たちに、一気に身体中が静まり返る。

「この前エルヴィンと夜会に参加したろ?その時に憲兵の連中がキミを目で追ってたみたいでさ、その憲兵の噂が回りに回ってリアに会いたい貴族が出てきたんだって。それをこの前内地に行った時に憲兵たちに聞かされ...」
「待ってハンジ、...つまり、私に貴族の男と顔を付き合わせて食事をして来いと?」
「そうだよ。ずっと言ってたじゃないか、庭付き戸建て持ちの玉の輿に乗ることが目標だって」
「......」

「...俺、お先に失礼します」とモブリットは一言告げると去って行き、私とハンジだけが中庭に残された。「いやぁまさか分隊長として内地に出入りしてるうちにこんな縁をリアに繋げられるなんてね。友人の為になれて嬉しいよ」と話しながらぎゅうっと手を握る力を強めるハンジの声音は弾んでいて、気づいた時には俯き気味になっていた顔のせいで表情こそは見えないけれど、見るまでも無いだろう。私はゆっくりとハンジの手を解くとパンパンとその場で手についた泥を払い、ハンジの顔を映すことなく背を向けた。

「リア...どうかしたの?」
「.....いや、.....何もありませんハンジ分隊長。お気遣い頂き大変恐縮でございます」
「えぇ?どうしたんだよその話し方〜」

きっと私がふざけてるとでも思ってるのだろう、ハンジはアハハと笑っている。そんな彼女に「ハンジ分隊長、あなたがつけてきた泥も落としたいのでお先に失礼させて頂きます」と告げると「えっちょっとリア、よかったらこの後食事しながらこの前のスケッチに書いてくれてた考察について聞きたいんだけどどうかな〜?」という言葉は聞こえなかったことにした。そして兵舎に入り、自分の中で呑みこめない感情に背を押されるように早足で自室に向かうと、扉の目の前に華美な包装のなされた箱を持ったニファが立っていて、私に気付くと「あっ、お疲れ様です」と笑顔をくれたけれど、それはどこかぎこちない。

「ありがとうニファ。どうかしたの?」
「これ、手配した物だからリアさんに渡すようにとモブリットさんから伺ったので...」

そう言いながらおずおずとニファから差し出された箱を受け取る。その大きさと形と包装に何が入っているのか察し、「ありがとうね、ニファ」と笑顔を作って伝えると「とんでもないです...」とニファが何故か申し訳なさそうに頭を下げた。そんなニファを一瞥して私は黙って部屋に入り、箱の中身を確認する。...それでよかった。

「...確かに頂戴しました。わざわざ後手配下さり恐悦至極に存じます。ってハンジ分隊長に伝えてといて」
「あっ...はい...」

それでよかったのに最後、部屋に入る寸前で喉に詰まったままだった感情の破片が言葉として飛び出てしまった。バタン、ニファが返事をくれたと同時に扉を閉めると、身体が扉を背もたれにズルズルと床へと沈み、私は箱のリボンへと徐に手を伸ばした。...分からない、何もかもが。なんであんな言動をハンジとニファにしてしまったのか、今胸の真ん中から冒すように私を支配していく感情は一体なんなのか。目の前でリボンを解かれ、包装紙を破かれて蓋を開けられるこの箱とは対照的で、胸をぎゅうっと締め上げる正体の解き方も不透明な感情を破いて明かす術もわからない。

「はぁ...」

箱の中に丁重に納められた深いグリーンのベルベッドは、窓から差し込む茜色に照らされながら繊細な輝きを私に見せてくれる。それが壁外で過ごす夕暮れ時の草原に見えたと同時に溢れた息はどこまでも重く、陽の沈みよりもうんと早く私の中に落ちていった。


その日から四日経った日がまさに今日だった。その日からハンジとは碌に口を聞いておらず、会いそうになったら全力で避け、業務の上で顔を合わせる場面になったら敬語と分隊長付けを徹底し、話が終わった瞬間逃げるようにハンジの前を後にして、引き留める言葉は無視した。元々お互い別の隊だから特別困ることは殆ど無かったけれど、周りが妙に気を遣ってきたり「あの...分隊長が勝手をしてしまい、本当に申し訳ありません」とモブリットに関しては頭を下げて来たりもした。

「リアさ、正直大人気ないよ」
「リーネの言う通り...ハンジの前でもあんた時々言ってたじゃない。ハンジはただあんたのことを想ってそうしてくれただけでしょ」
「......」

そんなモブリットに「モブリットが謝ることじゃないし、あなたの所の分隊長に恥をかかせないようにちゃんと努めてくるから心配しないで」と返したのをどうやら聞いていたらしい。モブリットが去った後姿を見せたリーネとナナバにそう言われ、つい言葉に詰まる。

「まあ...あんた達の問題だしこれ以上言及しないけどこれを機にちょっとは向き合ってみたら?特に自分にさ」
「ナナバの言う通りだよリア。...よし、じゃあとりあえず晩ごはん行くよ〜」
「...うん」

ナナバがそう言った通り、その後ナナバからもリーネからも深く問いただされることは無かったけれど、ナナバの“向き合ってみたら?特に自分にさ”という言葉がずっと頭の中で繰り返されている。
確かに私は玉の輿に乗りたいと言い続けていた。でもそれを一応の夢として語っていたのはもう十年も前の話で、調査兵団の兵士として生きていく上でぶち当たる理不尽に粛々と唾を呑み込むだけじゃやってられないからと、繰り言として溢していただけだ。年齢的にもそう言った、幼い頃読み聞かせされた絵本じみたことはあり得ないと理解していた。そんな夢物語を今回ハンジが十年越しに紡いでくれた。だから、あの日握られた手を嬉しさいっぱいで握り返して「ありがとうハンジ!頑張ってくるね!」と笑顔で感謝を言うべきだった。ところがどうだ、ナナバに言われた通り大人気なく敬語なんか使って距離を取った。私の為に動いてくれたハンジに失礼な態度を今日まで取り続けた。

「...分かんない」

ぽつり、そう呟いて私は近くに設けられたベンチに腰掛けた。あの時喜ぶべきだったのは分かっているだけれどその先は、なぜ喜べなかったのかは理解できない。けれど、分からない、そこは分からないけれど、喜べなかった割には今日のお見合いが上手くいことを私は期待していた。このお見合いが上手くいくことでハンジに「どうだ、上手く行っちゃったんだから。このまま結婚しちゃったらもう側からいなくなるんだから」とハンジに伝えることができるからだ。
でも、それを伝えて私は何がしたい?ハンジはきっと手放しに喜んでくれるだろう。...私は果たしてハンジからの祝福が聞きたいのだろうか。

「お嬢さん、こんな素敵な夜にお一人ですか?」
「えっ...あ....え...?」

すっかりと深い思考の最中に潜り込んでた意識が、低い男の声によって現へと戻される。それに驚いて顔を上げると、なんとエルヴィン団長が立っていた。

「随分と驚いてるなリア」
「え、だってこんな場所でお会いするなんて...しかもお嬢さんとか普段言わないじゃないですか」
「仕事でここに来たんだが先方に随分と可愛がってもらってな、ほんの憂さ晴らしだ」
「それは...変わった憂さ晴らしですね」

そう返すと「リアは...まあハンジが私にも話を通してきたから事情は大体把握しているが、兵舎に戻らず何をしてるんだ?」と訊ねられ、「馬の調子が悪いらしく、新しく手配してくると言われたので時間を潰してるところです」と伝えると「そうか」とエルヴィン団長は頷いた。

「後どれくらいかかる?」
「さっき聞いた話だと...後半刻以上はかかるかと」
「...じゃあ私の憂さ晴らしに付き合ってくれないか?」
「さっきのでお済みじゃなかったんですか?」

私のその言葉に団長は、「我々兵士に取ってやはり一番の憂さ晴らしはコレだろう」と言い、顎元で手首を曲げて見せた。その姿を映しながら暫し逡巡したけれど、今から更に半刻以上の時をここで一人思い悩みながら居座るよりは彼に付き合った方がいいだろう、と答えは直ぐに出た。「団長に比べれば若輩者ですが、よろしければ」と差し出されていたその手に自身の手を重ねると、「こっちだ」とゆっくり手を引かれた。

団長に連れられた酒場はワイン中心の小洒落たバーで、ガヤガヤとした騒がしさは一切なく、客は皆ワインを傾けながら穏やかな表情で談笑している。

「ワインを一本と、盛り合わせを適当に。ワインの種類は任せる」
「賜りました」

注文して程なく、ワインとグラスと、取り皿、そしてカットされたバケットとハムと干し肉と、何やら斑点が無数にあるチーズらしきものの盛られたプレートが運ばれてくる。そのニオイの強烈な暫定チーズを怪訝に眺めてる間に、ワインを注いでくれていた団長からグラスを受け取ると乾杯、と軽くグラスを突き合わせて口をつけた。ゴクンと喉に流すと芳醇な後味が口に広がって、その美味しさに驚いていると団長は例のチーズをカトラリーボックスから取り出したナイフで切り取り、手に持ったバケットに置いて見せた。

「リアの眺めていたこれはブルーチーズというやつで食料庫の奥で腐っていたチーズを出来心で食べたら案外美味かったと、今シーナ内で流行っているらしい」
「それは...腐らせるほど内地は食に困ってないってことですね」
「まあそうなるな」

さっきの食事に出てきたレアの肉。あれだけ身が赤いままでも食べられると言うことは、あの貴族の男が言った通り新鮮だからであり、それを珍しがる素振りもなく彼は頬張っていた。

「今まではシーナに呼ばれても業務を終えたらすぐに帰っていたので、今回の滞在には驚かされることばかりです。兵士としての日々が嘘に思えるほど平和で肉だって特別珍しく無さそうで、敢えて腐らせたものを口にしている」
「そうだな。でも君にとってこれから日常になり得る風景だ。最も、今日の見合いが上手く行っていたらの話だが」

そう言うと団長はチーズの乗ったバケットを私の取り皿へと置き、「どうだった?ハンジにいい報告はできそうか」と僅かに首を傾げた。それに対して曖昧な笑みを送ってバケットを口にすると、独特のニオイと共に濃ゆい味わいが一気に口に広がる。

「...そうか。まあ私としては優秀な部下を安易と内地に送る真似をしなくていいことにホッとしている」
「もう、反応に困るんでそんな直球で褒めないで下さい」
「アハハ、まあだから優秀な部下である君を見込んでの言葉なんだが、...ハンジに対していつも通りに接してくれないか」

サクッ、良く焼けたバケットの二口目の音がまるで相槌のように私たちの間に響く。

「私たちの属する環境は特殊だ。昨日酒を酌み交わし夢を語り合った仲間が、明日には非情な現実を前に命を散らす。長い間兵士をしてきたリアなら心当たりも多いだろう。だから別に素直になれとは言わない、」

そう続けるエルヴィン団長に「素直にって私はいつもハンジに対しては素直に、」とバケットを飲み込んで反論すると、じっと射るような目つきで見つめられる。それにハッとして「お話を遮ってしまい、失礼しました」と詫びると団長は「うん」とゆっくりと首を縦に振った。

「... リア、とりあえず今日帰ったらありのままをハンジに話すんだ。顔合わせは微妙だった、だがその後私と会って食べたブルーチーズは中々に美味だったと、シーナでの出来事をなぞればそれでいい。...くれぐれも見栄を張ることはないように」
「...ご配慮に感謝致します」
「もちろん、分隊長呼びも敬語も抜きでな」
「...了解しました」

私のその返事に、エルヴィン団長は満足げに頷くと「じゃあもう一度乾杯と行こうか」と私の空いたグラスにワインを注いだ。


馬車に揺られて兵舎に着いた頃には零時をとっくに過ぎていた。もう殆どの兵士が寝静まってる時間帯だけれど、そろそろとした足取りで向かった先の部屋からは微かに光が漏れていて、私は深く一度深呼吸をすると部屋の扉をゆっくりと開けた。いつ入っても埃っぽくて物に溢れた研究室は「この状態に慣れてて、変に片付けられたらどこに何があるか分からなくなるからくれぐれも掃除はしないでくれ!」とハンジに言われていて私は了承したものの、リヴァイ兵長とは軽く言い合いになったんだよね。なんて、緊張してしまっている自分を宥めるために思い出話のひとつでも聞かせてあげながら部屋の中を進み、私に気付かずに文献をぶつぶつと呟くように読み漁るハンジを見つめる。

「......ただいま」
「んー...おかえり...って誰だよ、部屋を間違えてる酔っ払いは?」
「別に酔うほど飲んでないし」

そう言いながらカチューシャのように額の上に上げられた眼鏡を下ろしてやると、「うわっ...!」と突然変わったのだろう視界に驚いたハンジが身体を仰け反らせながらこちらを向いた。そして「ちょっと悪戯はよしてく....えっ、 リア...?」とズレたメガネを掛け直し、その瞳を一段と大きくした。こうやってハンジと目が合うの、久しぶりだ。

「......やっぱり、グリーンにして正解だったな〜。蝋の光しか頼りがないけどリアによく似合ってる!」
「...ん?」

こうやってまた、友人と前の距離感で話せてることに嬉しくなったけれど、今まで失礼な態度を取ってたしこのまま目を逸らされて無視されてもなんら可笑しくはないんだろうな。そんなドキドキを不安と共に抱きながらハンジの次の言葉を待っていると、予想外の言葉が飛んできて、一拍遅れてドレスのことに触れているんだということに気が付いた。

「このブローチの石綺麗だね。暗いから分からないけどガーネットかルビーかな?リアの私物?」
「...じゃあこのドレスってハンジが選んでくれたの」

気付いたと同時にハンジの言葉をやっと理解できて、既に関心の先をブローチへと移した姿なんてお構いなしに訊ねてみると、「そうだよ。受け取りはモブリットが買って出てくれたから任せたんだけどね」とハンジはブローチを眺めたまま頷いた。

「前町で見た時リアに似合いそうだな〜って漠然と思ったんだけど私たちこういう仕事柄だし、夜会に同行する時も雰囲気に合ったものをエルヴィンが見繕うだろ?だから今回ちょうどいい機会だと思ってリアに贈ったんだ」
「そう...だったの」

受け取った日、ニファがモブリットさんとしか言わなかったから、すっかりハンジからドレスの手配を頼まれたモブリットが選んでくれたものだとばかり思っていた。ハンジが私に似合うと思った上で贈ってくれた、その事実に頬の筋肉が緩んでいく感覚がして、口角まで上がりそうな勢いだ。なんでだろ、お酒で表情筋緩んじゃってるのかなと、頬に手を当てるとほんのり熱い。そうしている間もハンジの目線はブローチに注がれていて、その姿にうん、と心の中で一度頷くと私は唇を開いた。

「...あのねこのブローチ今日会った人に貰ったの。お母さんの形見なんだって」
「へぇ〜じゃあ相手はリアのことかなり気に入ったってことだね」

「リアはどうだったの?」と続けて聞いてくるハンジの顔には好奇を滲ませた笑みがあって、私のここ数日の態度と見合いの件が彼女の中で紐付いていないのだろう事実を目の当たりにしながら、まあハンジらしいと言えばそうかと思った。

「...ハンジ、来週の夜空けといて」
「来週かぁ...今週は新兵の勧誘式もあるし研究も立て込んでるから...来週も絶対とは言えないかな」
「研究は明日、いや今から私も手伝うから。...このブローチ売っ払って美味しいお肉を食べにいくよ」
「売っ払う...って、それ形見なんだろ?」
「こんなぴかぴかの新品を形見だなんてほざく不誠実な男に仕返しがしたいの」

後胸だって触らされたし...という言葉は食い付かれたら話が脱線しそうだから伏せて言うと、さっきの問いの返答だと察したらしいハンジが「ああ...残念だったね」と顔に若干の陰を落としながら頷いた。しかしそれも束の間で「じゃあ次は誠実そうな人かの確認を怠らず可能なら私も同席するよ!」と拳を握って勢いよく立ち上がったハンジを「ちょっと...夜中だから静かに」と取り鎮めて座らせる。

「...それと、もうお見合いはいいから」
「えっそうなの?ずっと玉の輿って言ってたのに?」
「...うん、もういいの」

ハンジの顔を見つめながらそう強く頷くと、「そっか...」とハンジは一旦頷いてくれた。恐らく納得してないのだろう、煮詰まりきってないその顔に「でもさ、なんで急に心変わりしたの?何か今回のお見合いで心境変化があったの?それとも云々」って感じで根掘り葉掘り聞かれそうだな。

「でもさ、なんで」
「あっそういえば食事の後にたまたまエルヴィン団長に会ってワインをご馳走になったんだ」
「エルヴィンに?確かに今日シーナの方に行くって言ってたな〜。シーナのワインは美味しかったろ?」
「ワインだけじゃなくて今シーナで流行ってるブルーチーズってやつもすごく美味しかったんだけど...それがさ、黴の生えたチーズなの」
「えっ黴!?どんな味だったの?ニオイは?味わいは?ワインには合う?体に不調はない?」
「ちょっとちょっと...ゆっくり話すから落ち着いて、」

案の定ハンジお得意の無邪気な詮索が始まりそうだったから、エルヴィン団長という最強のカードを切らせてもらうと話は無事に逸れていってホッと一安心する。

「私も業務が中心だからまだブルーチーズはお目にかかったことないなぁ...今度エルヴィンと一緒の時あやからせてもらおう」
「その時はお土産で私の分も買ってきてよ」
「エルヴィンの懐次第だけどね」
「あんた...お土産まであやかる気なの?」

...もういい。そう、もういいんだ。とさっきハンジへと頷いてみせた返事を再び確認するように心で繰り返す。これをハンジに伝えられただけで十分だと、私はハンジとの久々の談笑を楽しみ、その後は起床したモブリットに声をかけられるまで研究に付き合った。その時「分隊長とリアさんが......俺寝ぼけるんですかね」と聞いてきたものだから、「徹夜明けの人間にそれ聞いちゃうかな。ねえハンジ?」と訊ねると「リアの言う通りだよモブリット。もう一度顔を洗ってきたらどうだい?」とハンジは軽いノリでモブリットへと返し、それを聞いたモブリットは何故か目頭を押さえながら「...俺、洗顔ついでに紅茶入れてきます」と言って部屋を出て行った。その姿にどうしたんだろうねとハンジと笑い合い、たった数日ぶりとは言え戻ってきた日常を肌で感じながらゆっくりと噛み締めた。

まさか五年前の悲劇がウォールローゼに、忍ばせた足音が聞こえるほど近くまで迫っていることなんて露程も知らずに。