夢を見た。
女が傍らに立っている。俺は文台に向かい、何を書いていたのだろう。今では思い出すことができない。しかし手に持った筆の冷たい感触は覚えていた。

夢のなかで、俺を訪れた女は淡々と自分の過去を語る。彼女はとても親しい友人であった気がするし、見ず知らずの他人であった気もする。顔も何故か朧気で、思い出すことができない。そんな俺に構わず、彼女は饒舌に話していた。
それが懐かしくて、ひどくーー憎らしい。
彼女の話は、決まって彼女の母の事から始まった。




私の母は人攫いでした。

ええ、もちろん貴方の思う通りの人攫いです。昔、この辺りで神隠しが頻繁に起きていたことは、貴方も御存知でしょう。赤子や幼い子どもばかりが拐われる。母親が寝ている間に、僅かに目を離した隙に、ほんの一瞬で子供たちが消える。何かの祟りなのか。呪詛なのか。
近隣の村では、子どもを守るために祈祷師を呼び寄せたり、神頼みをしたりしたのだそうです。
しかしそれが怪異ではなく、純粋に人の仕業なのだから、無意味はことなのでしょう。因果律を越えて存在するのは、全て人間の妄想なのです。

さて、お話を戻しましょう。母はかつて、夫との間にできた第一子を流産しました。以来子どもが産めぬ身体になったのです。医学的には、子どもができることすら、奇跡的な確率だと言われますので、特に珍しいものではないでしょう。いえ、そもそもが不気味な事象だと思うのです。赤子とは、女の腹の中で、その血肉を奪って育ちます。肉の糸を繋ぎ、寄生をすることで心の臓を得るのです。ただの肉塊は人型を得ます。羊水という海を用意させ、十月十日の間そこで眠り、外界とは肉の壁を隔てて生きています。

ならば母親とは、浅ましい生き物です。
そうして赤子が育つにつれ大きく膨らんでいく腹を、彼女たちは愛おしそうに見詰めるのですから。気味が悪いとは思わないのでしょうか。あの中で、人間のふりをしたものが人間になるのを待っているのです。
もちろん私も貴方も、例外ではないのですが。

ーーああ、すみません。話がそれてしまいましたね。
私の母は子どもを流産して以来、気が触れてしまったのでしょう。他人の子どもを攫うようになりました。自分の子どもが死んだことが理解できなかったのかもしれません。子どもを探して辺りを徘徊し、幼い子どもを見つけては連れ帰っていました。そのたびに、彼女はとても嬉しそうに笑ったそうです。「ご覧なさい。私たちのややこです」と。彼女の夫はそのたびにこっそりと赤子を返しにいったそうです。そうしてほとんどは実母の元へ戻されましたが。しかし中には両親の元へ戻れず、彼女の元で過ごす子どももいたのです。実母が養えないと判断したのか、一度神隠しにあった我が子を、異物と見てしまったのかは分かりかねますが。

言えることと言えば、それが私ということくらいです。

ですから私は両親の顔も何もわかりません。出来損ないの人間なのです。母性愛剥奪を御存知ですか。母の愛を知らない子どもは、精神的に何らかの障害をきたすのだそうです。ならば、私もそうなのでしょう。

……そういえば、先ほど女の子とすれ違いました。彼女は幸せそうな子どもでした。私とは真逆なのでしょう。しかし彼女もまた単なる思い込みの中で過ごしているかもしれません。誰が誰の親かなんて、特殊な方法で調べなければわからないでしょう。その遺伝子が誰のものか、知っているのは女だけです。子どもは母が示した男を父と判断するためのすべなどもっておりません。子どもは、母のためにそれを父と信じ、「子ども」を演じなければならないのです。

子どもとは可哀想な存在だと思いませんか。
女とは愚かな生き物だとは思いませんか。
貴方はどうですか。
貴方の母親は本当に貴方を生んだ女ですか。
母親さえ口を閉じてしまえば、腹の中身などわかりはしないのです。種をまくのは男ですが、どの種を育てるか選別するのは女です。
芽吹いたモノは、果たして本当に親のモノでしょうか。

「しかしお前もまた女だ。ならば、愚かなのだろう」

俺が言うと彼女は僅かに微笑した。
突きつけられた銃口は喉を這い額に到達する。引き金にかけられた彼女の細い指はかすかに震えていた。
辺りに散らばった墨が斑な闇を呼んでいる。文台の和紙が、月明かりに仄暗く輝いていた。行灯の赤を受けた彼女の横顔が、ぼうと揺れる。

「珍しいでしょう。異国の友人からいただいたんです。この銃なら、戦争でも使えると思いませんか」

額に感じる銃口の冷たさに目を細める。灯りと影の縁に立ち、彼女は穏やかに笑んだ。
挑発でもしているつもりなのか。
薄く笑んだその赤い唇は、彼女の白い肌に嫌に生々しく艶を放っていた。
額に押し当てられた銃口の冷たさが、妙に現実味に欠ける。手に持っていた筆を置き、深く息を吐き出した。彼女は抑揚に欠けた声で言葉を吐き出した。

「結構貴重なものなんですよ。急所を狙えば一発で殺せます。印を結んだりチャクラを練ったりと手順を踏まなければならない忍術に比べて、ずいぶんと手軽に処理できると思いませんか」
「……」
「ああ、でも、一応銃弾に制限はあるんです。これも残り2発しか撃てないみたい」

それは暗に、俺よりも先に誰かを撃ったことを示していた。
彼女は一週間ほど前から、夜中に集落を抜け出すことがあった。どこへ向かっていたのか。何をしていたのか。誰も追及しようとはしなかった。それは彼女が弱く非力な女であったからだろうか。

「それを使い、誰かを殺したのか」
「さあ、どうでしょう」
「なら、お前の村を戦で焼いた俺を殺しに来たのか」

彼女の瞳が見開き、虹彩が色を無くす。額から銃口が離れた。
――情けをかけた結果がこれか。
戦場とならなくても、そのそばにあるだけで小さな村や集落は飛び火を受ける。運が悪く、彼女は先の戦で故郷も家族も失った。
その戦では当然のごとくうちは一族も大きく貢献した。彼女からしたら、俺は敵のようなものなのだろう。
あの日、唯一生き残った彼女をこの集落で養ってやろうと連れ帰ってきた。気まぐれだった。手当をすれば助かるという生きた人間を、放っておくことに良心が咎めたことや、イズナが気にかけていたこともあった。適当な理由を寄せ集め、彼女をここで生かすことにした。
カチリと音が響く。彼女が拳銃を握りなおした。

「恩人ですよ、マダラさん。貴方には感謝しています」
「そうは思えないがな」
「私には、荷が重かったのかもしれません」

彼女は拳銃を見詰める。唇は小さな弧を描いていた。行灯の灯が不安定に揺れる。

「貴方たちのように、私には何ひとつとして確証がないのです」
「確証?」
「私の母は偽物でした。父が偽物でした。では、私は?」

暗い眼で銃口を覗きこみ、彼女は首を傾げた。梟のようなその所作に、奇妙な違和感を覚えた。

「私とは、一体何なのでしょう。曖昧で不安定で、どこに足をついたら良いのかもわからないのです。私は、偽物でしょう? 私という存在は偽物でしょう?」
「己がどうあるかを決めるのはお前自身だ」
「そうですね」

拳銃がゆっくりと持ち上げられる。
故郷を失い、家族を失い、『自分』すら失った。自身の在り方に戸惑いを口にする彼女は、しかし妙に悟りを得たように静かな口調だった。

「考えたことはありませんか。誰が誰の子なんて誰にもわかりません。なら、女が望めばその瞬間それは子どもなのです」

私はそうして、魍魎のように曖昧で不確かな存在になりました。

「知っていますか。遠い異国の哲学者は、人間は二度生まれると言いました。一度目は生きるために。二度目は愛するために」
「……」
「私は、一度目に生まれた時、あまりに不完全でぼんやりとした偽物でした。ですから、二度目の誕生で確かな本物になろうと思うのです」
「何を」
「ですから私は、貴方の母になろうと思うのです」
「!」

耳をつんざく銃声が空間を震わせた。
飛び散った赤い飛沫が頬に触れる。ごぼりと血泡を吐き出し、彼女は笑った。
障子に赤が散る。
蒼白い月明かりが、彼女の瞳孔をぼうとくすませた。

「ならば貴方を愛おしいと思った瞬間、私はきっと二度目の誕生をしました。それは確かに、『正しい』ものだと思うのです。この一族の中で過ごせたことは、きっと偽物ではないと思うのです。だから今度は」
「……!」

二度目の銃声が鳴り響いた。

「貴方が私を愛してくださったら、しあわせだなって」

彼女の着物の腹部から下は真っ赤に染まっていた。その体がゆっくりと傾く。真っ黒な世界に、赤い尾を引きながら彼女は沈んでいった。とっさに手を伸ばすが、血で滑って掴むことができない。
まるで飛翔するようにそれは墜ちていく。赤を纏いながら彼女は至極穏やかに笑っていた。


いつもそこで目を覚ます。
網膜はごく自然に機能していた。
目覚めた後、彼女の顔や彼女と過ごした時間の夢の内容を思い出すことはできない。
いや、思い出せるはずがないのだ。
彼女は俺がこの集落に連れ帰った日に自害した。
故郷を失ったことに悲嘆したのか。家族を失ったことに絶望したのか。あるいはこの戦禍に塗れた世を愁いたのかはわからない。

ただ、彼女は夜ごと俺の枕元に会いに来る。
そして責めるようにあの夜を繰り返すのだ。





20130118



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