※学パロ




ポタリとキャンバスに青が滲んだ。筆はたっぷりと青い絵の具を吸い込み、零れてしまいそうなほど丸々と太っている。しかしその筆は動くことなく、ただキャンバスと1センチほどの距離をとり制止していた。時折窓から吹き込む風に筆が晒される。絵の具が乾いてしまうのではないのだろうか。
小さく震えた手が筆を握り直した。先ほどからピクリとも動かなかった背中がゆらりと揺れる。そして勢い良く立ち上がった。反動で座っていた椅子が倒れる。ガタンと響いた音にビクリと体を震わせれば、次の瞬間パキンと何かが折れる音が響いた。無造作に勢い良く筆を床に叩きつけ、彼は舌打ちをする。部屋の中に流れ込む風が、刺すように冷たい。

「……サソリ先輩?」
「……」

恐る恐る、その背中に呼びかける。肩越しに向けられる琥珀色の瞳が、暗く揺れた。その足元には先端に青を含ませた筆が落ちている。床には乾ききらなかった絵の具が飛び散り、青い斑紋が点々とできていた。
キャンバスは未だ真っ白なままだ。代わりに色を受け入れた床を掃除すべく、私は雑巾を片手にその傍らに寄る。そして沈黙を守り立ち尽くしている彼が汚した床や椅子、テーブルを掃除するのだ。コンクール前には、よくあることだった。
美術部の部長である彼は、その才能から数々のコンクールで賞を取っている。周りからは賞賛され、期待され、進学先も美術関係の学校だと聞いた。芸術を生業として生きていく。高校に入り垣間見た本物の芸術家に心を動かされ、私は美術部に入った。だからといって私は別に賞を取りたいわけでもそうなりたいわけでもない。ただ、そう、見たかったのだ。本物の才能を。

しかしそれも蓋を開ければただプレッシャーに思い悩まされるただの青年だった。彼は、コンクールの作品作りの期間は常に苛立っている。癇癪を起こしたようにパレットや筆を投げ捨て、時には描き途中の作品を引き裂く。何が気に入らないのか。何がそんなに苛立つのか。私のような凡人には、わからなかった。
雑巾で床を拭きながら、ゆっくりと立ち去っていく背中をチラリと見る。少し離れてこちらを見ていた同じ部の友人が、彼が部屋を出て行ったのを確認して雑巾を持って足早にやってきた。そして私と同じようにテーブルや床を拭きながら「恐いね」と苦笑混じりに言う。私もそれに苦笑しながら頷いた。

それから塾があるというその子を送り出し、私は一人、美術室で白いキャンバスを眺めていた。傍らには片付けられていないパレットがある。出されている絵の具は青系統のものばかりだ。コンクールのテーマは、確か空だっただろうか。白と青を交互に見つめ、ふと、赤くなりつつある西日を見た。

「夕焼けでもいいわけだ」

別に私はコンクールに応募はしない。しかし一応美術部だ。描くことに興味はある。テーブルの上にばらまかれた赤と黄色の絵の具を選び、パレットの空いた部分に色を押し出した。綺麗に洗った筆先に黄色をつけ、何の躊躇いもなくキャンバスに触れた。そしてそのまま色を押し伸ばす。半円形のそれに一人満足げに頷いた。次に赤を混ぜ、ありきたりな夕焼けの風景を描いていく。
単純なグラデーションの夕焼けは、しかし私にとっては最大限の技術を費やしたものだった。
夕焼けを描き終わったら、今度は黒で辺りの木々や建物を描いていく。途中なんとなく気まぐれで、いもしないカラスの親子やありもしない家なんかも付け足した。絵画というより、空想画かもしれない。そんなことを思いながらもどんどん無いものを付け足して描いていく。すると不意にガラっと教室のドアが開く音が響き、反射的に振り返った。

「何してんだ」
「あ、サソリ先輩」

つい数時間前帰ってしまったと思っていた人が立っていた。驚いてそちらを見ていれば、彼は私の真後ろまでやってくる。そして私が描いた捏造だらけの空想画と化した絵を見て眉をひそめた。

「こんなところに家ねえだろ」
「まあ」
「カラスだって飛んでねえ。なんだこの漫画みたいな絵」
「く、空想画?」
「……」

怪訝そうに歪んだ顔に苦笑を返す。しかしそれでも気にとめることなく、私は再び筆を走らせた。

「おい木なんかそんなとこに……」
「いいんです」
「……」
「私の絵ですから。好きなもの描いて好きな風景にするんです」
「ガキか」
「私、先輩みたいな才能はありませんからね。でも一応描くことは好きなんです」
「へえ」
「でも描かされるのは苦手です。だから自分が好きな風景を描くんです。ここにあるとかないとかじゃなくて、あった方が私は好きだなって」
「……」

笑いながら言って、もう一対のカラスの親子を描いた。真後ろにいた先輩は隣に立って少しだけ目を見開いて私を見た。これが天才と凡才の差だ。少し乾いた筆に水を含ませ、次いで黒に浸す。すると不意に横から白い手が伸びてきて、私から筆を奪った。

「芸術ってものをわかってねえな」
「平部員ですから」
「関係ねえだろ」
「そうですかね。でも、先輩よりは楽しく絵を描いてますよ」
「……」

私から筆を奪った彼は、ゆっくりと黒をキャンバスに伸ばした。それは夕日に伸びる人影のようだ。キャンパスの真ん中に一人だけぽつんと描かれる。まるで寂寥感を黒く塗り固めたようだった。これは私が好きな絵じゃない。

「だが、本物になりたきゃワガママなんて通用しねぇよ」
「ワガママが通用する本物になればいいじゃないですか」
「お前な」

奪われた筆を奪い返す。そして真ん中に描かれた人影の隣に、もう一つ人影を描いた。デッサンなど無視して腕を伸ばし、彼が描いた人影と繋がせる。スペースからして無理やり描いたそれはひどく歪な形だった。しかしこちらの方が私が好きだ。「よし」と小さく呟いた私に、彼は隣で吹き出して笑い出す。それに眉をひそめれば、ひとしきり笑い終わった後に彼はタイトルは何かと訊いてきた。それに少し悩んだ後に「ふたりぼっち」だと答える。またクスクスと彼は笑った。そして帰るかと片付けを始める。赤い夕陽が部屋の中を優しく照らし出した。

片付けを終わらせた後は、成り行き上途中まで一緒に帰路を辿ることになった。赤い夕陽の中を、黒い二つの影が浮かび上がる。何だか「ふたりぼっち」の再現みたいで、少しだけおかしかった。





20100402
修正20130109


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