彼女は先月髪を切った。失恋だとか、何かの決意表明だとか、そういったしおらしい理由では断じてないらしい。ただ、邪魔だったから切った。彼女は明日の天気を嘯くように言った。今まで髪で隠れていた耳やうなじが、風に晒され冷たく視界で揺れていた。
邪魔に感じるというのなら、もっと早く切れば良かったのだ。腰の辺りまで伸びた髪は、まるで最初からなかったかのように綺麗に襟足までばっさりと切られてしまった。それと同伴するように、長い髪を引きずっていた頃の彼女の面影も跡形もなく切り離された。「軽くなったでしょ」と、笑った彼女の横顔が、何故か新鮮で物悲しく映ったことを覚えている。

「いい加減見慣れてくれてもいいんじゃないの?」

どこかおかしそうに言った彼女に眉をひそめる。縁側に腰を下ろし、中庭の池を臨みながら、彼女に首筋に視線を這わせた。

「ずるずると髪を伸ばしていたくせに、自分勝手な言い草だな」
「だってもう一週間は経つでしょ。そりゃ私も首元寒くなったけどさ」

襟足の髪を摘み、指に絡ませながら彼女は言葉を吐いた。そのたびにうなじを撫でるように髪が揺れる。彼女とは幼いころからの顔見知りだが、出会ってからの20年近く、彼女が髪を切ってもここまで短くした姿を見たことはなかった。いつも切っても肩口程度までだった。それが、ここまで切ったのだから何かあったのではと勘ぐってしまうのが道理というものだろう。この一週間で何度か聞いてはみたが、彼女は「邪魔だから切った」と答えるばかりだった。
……オレには、言い難い理由なのだろうか。
それはそれで釈然としなかった。子供じみた考えだとは思う。しかし、長い付き合いでありながら今更壁や変な仕切りを作られるのは不愉快で仕方がなかった。
視線を何もない池の方へと移し、自分でも理解しかねる溜め息を吐いた。

「あ、そうだ。今日はこれ、これ持ってきたの」
「?」
「珍しいでしょ。マダラにもお裾分け」

そう言って彼女は此処に来てから右手で持ちっぱなしだった包みを差し出してきた。そっと結び目がほどかれ、その中身が顔を出した。朱色の厚い皮らしきものは割れ、その裂け目には熟れた濃い赤い粒がびっしりと並んでいる。赤い粒は日の光に妖しく光沢を纏っていた。

「柘榴か」
「そう。近所のおばさんからもらったんだ」
「確かに食ったことはないが、だからと言ってわざわざ見せに来るな。お前は子供か」
「だって初めて見るから。珍しかったんだもの」
「もう食ったのか?」
「なんか、甘酸っぱい。あとちょっと苦いかも」
「……」
「せっかく持ってきたんだから試しに食べて。ちゃんと洗ってきたからこのまま食べられるよ。ほら」

粒を引きちぎった彼女がそれを口元に差し出してくる。赤い汁が彼女の指先から手首を伝った。血のようにも見えて、一瞬だけ身を引く。僅かに躊躇った後に、小さな粒を唇で掬い、口腔内に含んだ。彼女の言葉通りに、甘酸っぱさと苦みが舌を刺激する。反射的に、つい眉をひそめた。

「どう?」
「……好みではない」
「あらら、ごめんね」

手に伝う柘榴の汁を傍らにある布でぬぐいながら、彼女は笑った。
癖の強い味に、咀嚼にも嚥下にも苦戦する。舌に残る風味が、嫌に咽頭を刺激した。そうしてオレが完全に嚥下するのを見届け、含みのある笑みを浮かべて言葉を続ける。

「柘榴に纏わる民話知ってる?」
「?」
「鬼子母神の話。お釈迦様が、人の子を食う可梨帝母の最愛の子供を隠して、そして子どもを失う母の苦しみを悟らせて、柘榴を与えて人肉を食わないように約束させたって話」
「……」
「そうして仏教に帰依した可梨帝母は鬼子母神っていう子どもと安産の守り神になった。だから、人肉の代わりに柘榴を与えたってことは、柘榴は人の味がするんだって」
「……食わせた後にする話か?」
「これも近所のおばさんに聞いたの。ちょっとマダラにも試してみた」

からからと笑いながら、彼女は柘榴の実を一粒口に運んだ。実を食いちぎった時に跳ねた汁が彼女の口端を滑る。その光景に、なぜか背筋がぞくりとした。

「人の味がするんだよ」

彼女は繰り返す。ゆっくりと俯くその横顔が、泣き出してしまいそうに見えた。
子どもと安産の守り神。その象徴である赤い果実。
彼女の切り捨てられた長い髪の本当の意味。
――本当は、知っているのだ。
ただ、知らないふりをしていたかった。
彼女の伴侶が、先月、戦争で命を落とした。二人の間には子供がいた。彼女は臨月だった。夫の死にショックを受け、彼女は流産したのだ。
全てイズナから聞いた話だった。
オレは、彼女が結婚して以来顔など合わせようともしなかった。
会いたくなかった。
素直に喜べなかったのだ。
彼女の結婚も、妊娠も、全てが疎ましかった。
頭のどこかで、もしかしたら、彼女の夫を殺してしまいたかったのかもしれない。
――だから、うちはの頭領として、彼の出陣に簡単に許可を出した。

オレは、あの男もあの男の子どもも憎かったのだ。
死んだと聞いて、オレは頭の片隅で安堵したのだ。
オレが殺したようなものだ。

「name」

そっと、彼女の口元を滑る赤をぬぐう。
冷たい風が吹き抜け、白いうなじが透明な音を立てる。
彼女は母にも妻にも成れなかった。
――それはなんて、喜ばしいことだろうか。
ならなくていい。
何も変わらぬままに、ここにいてくれればそれでいい。

「マダラ、私」
「いい。話さなくて、いい」
「……」

白いうなじを見ながら、想像してしまった。
その首筋に歯を立て、肌を突き破り、肉を食んだら。
彼女も柘榴のような味がするのだろうか。

彼女の肩を抱き寄せ、首筋に唇を寄せた。




(20121127)


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