コツンと、爪先を些細な衝撃が突っついた。毬だ。何故こんなところにあるのだろう。麓の村の子供が、遊びに夢中で迷い込んだのだろうか。そっと拾い上げ、辺りを見回す。

傍の茂みに幼い少女と少年がいた。兄妹だろうか。毬を差出し、首をかしげた。

「あなたたちの?」
「!」
「どうぞ」

子どもたちは差し出した毬と、私を交互に見た。そして怯えたような目をした少女に対し、少年は私を睨む。

「いらない、呪われるから」

言葉と共に、石が投げられた。
肩に食い込む痛みに、小さく呻いた。

「あっち行け、来るな」
「にいちゃ」
「鬼は子どもを拐うんだ。さらって骸にして返すんだ。オレたちのねえちゃんを返せ」

少年が叫ぶ。
手から毬が滑り落ちた。
そっとその毬の軌跡を追い、胸中に広がる漠然とした恐怖に唇を噛んだ。

――可哀想に。
――鬼の子になっちまった。
――もう人の世に帰ればしないだろう。

あれも等しく鬼だ。
子どもたちが走って逃げていく。
私もああして逃げれば、今頃は麓の村で過ごしていたのだろうか。
あのとき、母を、あの女を、拒絶すれば。

『私が、守るから』

肩や腕に咲いた痣や瘡蓋を撫で、深く吐き出した。最近は小さな子たちの悪戯が目立つ。石や小枝ならまだマシだが、槍や矢まで投げられては家が壊れてしまう。私の家は、もうこの陋屋しかないのだ。帰れる場所は、このあばら屋しかない。
ここを失うわけにはいかない。

「母さま」

何故、私を。
真新しい傷跡に爪を立てた。包帯をゆっくりと染めていく赤は、嫌いな赤だ。熱を持った痛みも、疎外も、迫害も、ひとは、嫌いだ。




昨日の晴天とは打って変わり、今日は雨だった。
重苦しい鉛色の蓋が頭上を覆っている。
差した番傘を徒にくるくると回しては、水たまりを避けながらいつもの道を進んだ。
幾重にも連なる鳥居をくぐり、少し離れた丘に向かう。
冷たく暗く淀んだ獣道を進んでいく。

茂みや木陰から、蛇や獣がこちらを覗き見ている。こちらが手を出さなければ、獣といえど危害を加えられることはない。この山の獣は、皆おとなしい。人よりも獣の方が情が厚いというのは、あながち間違いではない。ここで暮らすようになってから、ぼんやりとそんなことを空想する。

それからいつも通りの道を進み、大樹の前に来たところで、足を止めた。先客がいた。彼だ。こう連日会うというのは珍しい。思わず見慣れた背中に立ち止まっていると、その背中はゆっくりとこちらを振り返った。
――よく見れば傘をさしていない。ただでさえ寒い日が続くというのに、これでは風邪をひいてしまうだろう。

「風邪をひきますよ」
「……お前か」
「雨じゃ景色も霞んで余計見えないでしょう」
「人の事を言えた立場か」

面を付けたその相貌は、雨に霞んで余計に感情が図りにくい。しかし一方で、雨のせいか泣いているようにも思えた。
特に意図することもなく彼に近づく。母の墓参りに来たつもりが、とんだお節介を焼きにきてしまったかもしれない。

「雨が止むまで、家で休んでいってください。すぐそこなんです」
「……」
「帰る場所がないなら、行き場所はきっと自由でしょう。そのままでは風邪もひいてしまうし」
「構うな。お前には関係ない」
「私の利己ですよ。良心の呵責ってあるでしょう」
「慣れ合うつもりはない」
「ふふ、私にとっては、貴方は無二の友人なんですけどね」

面から覗く彼の瞳が細められるのがわかった。ああ、やはり嫌そうな顔をしている。それがどうにもおかしくて、私はつい笑ってしまった。存外彼は私よりも歳が下なのかもしれない。ふとした時に露わになる些細な仕草に、そんなことを考える。面を付けているせいで素顔も年も全く判別つかないが、一年という時間でのやりとりで若いということは承知していた。ならば、彼は自分の中の「子ども」の部分を早くに殺してここまで来てしまったのだろう。――忍のようであるし、否が応でも大人にならなければならないこともあるかもしれない。

彼の氷のように冷え切った指先を掴んでは引いていく。
特に抵抗する様子もなかったので、勝手に同意してくれたと思い込むことにした。
来た獣道を引き返していく。野兎が木陰からこちらを見ていた。蛇が音もなく足元を這って行く。
そういえば、今のあの家に客人を招くのは初めてだ。
友人を家に招くのは、初めてだ。
そんな些細な現実に、雨音が番傘を軽やかに叩いた。




髪が長いのがいけない。
手拭を渡しても、特に水気を取ろうとしない彼に眉をひそめる。
服も濡れているというのに、これでは身体が冷え切ってしまうだろう。火鉢を一応つけてはみるが、彼は入口で腰を下ろしたっきり動こうとしない。重い火鉢を引きずり彼のそばに寄せる。しかしその面はずっと家の外を見ていた。

「みっともない家ですけど、雨風を避けるには問題ないはずです」

そんなに外を気にしなくても、雨漏りもなければ風で屋根が飛ぶこともない。
あまりに中に入ることを躊躇う彼に、余計な懸念を抱いてしまう。
私は慣れてしまって今では全く違和感も抵抗もないが、やはり一般的な感性から見たらこの家は衛生面や強度面で不安なところが多いのだろうか。
差し出したお茶が冷めていくさまを眺め、吐息をついた。淹れ直した方が良いだろうか。
するとおもむろに赤い隻眼が向けられる。

「名前も知らぬ男を、簡単に家に上げるな」

無防備というものだ、と彼は冷め切ったお茶を掴み上げた。
お茶を淹れ直そうと伸ばした指先は宙を掻いた。
――確かに、私は彼の名前を知らない。知る必要は、おそらくないと思っている。おかしなことに、名前を呼ぼうとしたこともなければ、知らないことで戸惑うということがこの一年間で全くなかった。
もちろん彼が私の名前を聞いてくることも同様になかった。
ならば、これが私と彼の在り方なのだと一方的に納得していたのだ。

「じゃあ、名前教えてくれるの?」
「さあな」
「ほら、はぐらかすじゃないですか」

必要はないでしょう。
おかしくなって笑うと、彼の瞳は怪訝に細められた。

「私に名前があってもなくても此処にいることに変わりはないし、貴方もそれは同じでしょう」

続けて言った私の言葉に、彼は再び外へと視線を向けた。火鉢のおかげが、少しずつ空間は暖まってきている。寒さで無意識に入っていた肩の力を抜き何気なしに傍にあった手拭で彼の髪から零れる雫を掬った。
――変わりはない。
私の名前を呼ぶものは母を亡くして以来消えてしまった。誰にもこの名前は呼ばれることなく、私はただひとりでここで生き、そして死んでいくのだろう。それはある種の諦めであり、防衛でもあった。諦念とは都合の良いモノだ。残酷な現実も、状況も、全て妥協して抱え込める。

私には、何もない。
その諦めだけが、この生活を支えている。
じくじくと痛み出した肩の傷に、一瞬だけ息を呑んだ。
だが、痛みなど翌日には和らぐ。
傷痕も消える。
ほんの一瞬、耐えられればそれだけのことなのだ。

「痛むのか」
「え?」
「怪我をしているのだろう」

視線を向けられずに紡がれる言葉に、瞠目する。私は果たしてそこまで痛みに表情を歪めていただろうか。彼の発言に戸惑い、視線を家の中にさまよわせた。

「言いたくなければいい、オレには関係のないことだ」
「大したことじゃ、ないんですよ。転んだり、ちょっと手を滑らせたり」
「……」

彼の視線が鋭いものになる。しかし私は大したことじゃないと繰り返した。
自分に言い聞かせるように、繰り返した。
――誰かがこちらに向かって矢を放っただけだ。
――見知らぬ子どもに石を投げられただけだ。
大したことじゃない。
それはすべて仕方のないことなのだ。
溢れてくる言葉を、しかし飲み下して私はぎこちなく笑った。

母が、鬼無里の出身だった。
そして母は戦争で顔に大きな傷を負った。
一般的に見れば、醜い顔なのだろう。
前にいた村では鬼無里出身であること、顔が醜いことを理由に、鬼女だと忌み嫌われ、迫害を受けた。

しかしそれは仕方のないことだ。
弱いものは淘汰される。
私たちは、強くなければならない。
ここで屈しようものなら、死んでも当然、迫害されても当然なのだと母は言っていた。
私たちは気丈でなければならない。
泣いてはいけない。
惑ってはいけない。
生きなければならない。

――母さま、でも私は疲れました。

墓前で許しを請うように、あの日、血を吐くように私は呟いた。
――そうだ、彼と初めて会ったのは、その日だ。

ついぞこみ上げてくる熱に、目蓋が震えた。ふと息を呑みこむ。喉元まで出かかった感情を、噛み殺して彼の髪に指を絡ませた。気取られまいと、敢えて呆けたように言葉を紡いだ。

「紅葉狩り伝説、知ってます?」
「……」

彼は答えない。
雨音だけが、延々と響いている。
どうせ雨はまだ止みはしない。
暇潰しにと、口火を切った。

「昔、子宝に恵まれなかった夫婦が第六天魔王に祈りを捧げ、女児を授かるんです。その子は呉葉(くれは)と名付けられ、たいそう可愛がられたそうです」

人ならざる子供に名付け、愛情を注ぐ。その夫婦にとって、それだけの価値が子供にあったのだろう。
彼の黒い髪を指先にくるくると巻き付けてはそっと離す。軽く癖はついても、すぐに元の形に戻る。彼は黙って私の話を聞いていた。いや、聞く気などないかもしれない。私が一方的に話しているだけだ。

「呉葉は美しく育ったそうです。頭もよく、夫婦にとって自慢の娘でした。そして呉葉は後に紅葉と名を変え、京に上りました。才色兼備である彼女は、御台所の目に留まり、宮中に招かれるんです。最初は琴を教えたりしたそうですよ。そして腰元となり、局となり、将軍の子供を持ち、順風満帆な人生を送っていました」

しかし、存外綻びは安く訪れる。

「御台所が病に伏してしまうんです。将軍は比叡山から僧を呼び寄せ、それが紅葉の呪詛であることを知りました。呪詛を看破された紅葉は宮中を追放されます。そして水無瀬という地で、子を生み、一時は穏やかに過ごすんです」

もし彼女に皮肉があるというなら、それは己が人の子ではないということだろうか。

「教養もある彼女は村では重宝されました。しかし紅葉はある日突然、人が変わったように荒むんです。宮中の暮らしが恋しかったのでしょうか。京に戻るための資金を集めようと、近隣の村を賊を率いて襲い始めます。それを聞いた将軍は、武将を率いて紅葉討伐に向かいます。でも、彼女の術を前にことごとくはね除けられてしまうんです」

当たり前だ。人ではないものに、ただの人が敵おうものか。彼はそっと私を見る。

「それに頭を悩ませた武将は神頼みをしました。するとある日、夢枕に老僧が現れます。老僧は武将に降魔の剣を授けました。そして、紅葉はその剣で首を跳ねられて亡くなります。紅葉が赤い、季節だったそうです。今では、水無瀬は鬼女が去った地、鬼無里と呼ばれています」

−−鬼の去った地。転じて鬼がいた地だ。母が生まれたその場所は、禁域と呼ばれていた。
後に女郎となった母は、しかし戦争で受けた傷で客を取れずに郭を追い出された。その時には赤子を身籠っていたらしい。せめて、愛した男性との間の子どもで在りたかった。父のわからぬ子どもを連れた女。醜い顔を持った、鬼無里出身の女。母が、鬼女だと言われるのはこの時代では仕方のないことだ。娘である私が、同様に疎まれるのも仕方のないことだ。

「能でもある、有名な話なんですけどね」
「お前は」
「いえ、母の生まれた地なんです。思い出しただけなんです」

こちらに向けられた視線がそらされる。あまり、面白い話ではなかっただろう。退屈させてしまっただろうか。ごめんなさいね、と私が溢すと、彼は再び私を見た。
すると、彼は不意に面に手をかける。そっと退けられるそれに彼の素顔が露になった。

「!」

反射的に身をひいた。
息を呑み、その相貌を見る。
顔の左半分は包帯で覆われ、右半分は皮膚が歪に引きつっている。怪我によるものであるのは、素人でもわかる。よほど大きな怪我だったに違いない。彼もまた、戦争で傷を受けたのだろうか。
深い亀裂が走る皮膚の間で、真っ赤な眇がこちらに向けられた。

「……先の戦から生き延びた結果だ」
「私の母も、戦争で顔に怪我を負っていました。この時代、醜女はなにかと差別の対象になるので、苦労したそうです」
「くだらん」
「そうですね、なんとも、生きにくい世界です」
「……」
「でも、そっか」

そっと、その頬に触れた。皮膚こそ変形してしまっているが、ただの人間となんら変わりない。温かい。人の温度だ。

「貴方は、こんな顔をしていたんですね」

面を付けていた理由こそ聞かないが、思いの外優しげな顔立ちに笑みが溢れた。彼は眉間に皺を寄せ、外を見る。もっとよく見せてくださいよ、と側に寄ると、呆れたように溜め息を吐いていた。

「物好きだな」
「あなたほどじゃないですよ」
「口の減らん女だ」
「だって、貴方が私達の話を聞いてくれるんだもの」
「おかしなやつだな」

彼は、どこか困ったように笑った。その穏やかな表情にふと込み上げるものがある。しかし、途端に泣きたくなったのは何故だろう。堪えきれず、彼の肩に額を押し付ける。その体幹に身を寄せ、嗚咽を漏らした。

私の髪を優しく梳く手のひらの温かさに、たまらず大粒の涙が溢れた。



20130126


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