途方のない青が頭上を覆っていた。青ざめた帳は、白い掠り傷のような雲を抱えている。弱々しい朝焼けが、眼窩をゆるりと舐めあげた。瞳孔は光を拒絶するように細くなる。

力の入らない手で、戸に刺さった矢を抜いた。今月に入って何本目だろうか。庇の上に投げつけられた小石を眺め、ひとつ息を吐く。
足下で力無くうなだれる枯れた草花も、やせ細り沈黙している大樹も、総てが世界を拒絶しているように見えた。


そっと視線を持ち上げた先には、手招くように幾重にも連なる鳥居がある。
その奥には小さな宮が佇んでいる。今では寂れたそれは、戦禍が撒き散らした災いを納めるために建てられたらしい。

しかしもともとは間引かれた子や水子の供養の為のものだと聞いた。とはいえ、戦争にまみれたこの時代では金も食料もない。親になるべく者に、養っていくだけの余裕がないがための処置だ。一家で野垂れ死ぬより、少しでも生き延びるために選んだ苦渋の決断に過ぎない。7つまでの子どもならば、神の御許へ返されるという迷信もある。

――ならば、今こうして神の御許へ返されることのなかった自分は、親に生きることを望まれたのだろうか。それとも神から拒絶されたのだろうか。
そんなくだらない空想が思考を焼いた。

ふと気付けば、鳥居も最後の1つをくぐり終わっていた。鳥居をくぐるたびに俗世を捨てるという。現実が剥離し、煩悩が削がれ、価値観が麻痺し、培ってきた人格を磨り潰す。
ならば、幾重にも連なるその向こう側はこの世とは言えないのではないだろうか。その先に、いるのは――。


結びの瑕疵


もともとは社であったのだろう。幾重にも連なる鳥居で囲まれた其処は、ただ自然が作り出す青々とした色に染め上げられ、沈黙していた神社だった。
今では信仰も参拝者もなくした神の去った地だ。寂れた廃屋となった小さな社に、祀られるモノはない。そんな場所に、戦禍から逃れ、辿り着いた人間が住み着くのは何ら不思議ではなかった。
私と母もまた、例外なくそれであった。
故郷は焼かれ、村は燃え尽き、長屋は崩れ、居場所は灰となった。
死に物狂いで逃げ、辿り着いた場所は、神が去った陋屋だ。

しかし外観こそただのあばら屋だが、中は存外綺麗に保たれていた。掃除をし、手入れをすれば住むには申し分ないほどの場所だ。

『ここが私たちの新しい家よ』

優しく笑った母の顔がそっと意識を撫でる。今では見ることも叶わぬ過去の憧憬だ。肩に走る痛みを押し殺すように、左手に持って手桶を握り直した。進めていた歩を一度止めて、目を伏せる。思考の片隅をチリチリと焼く感傷は、己の孤独感を顕著にした。

社を訪れる参拝者はいない。
私を訪れる友はいない。
家を訪れる親族もいない。
私はさっぱりひとりである。

それは途方のない自由であるし、また逃げ場のない虚しさでもある。しかし前の故郷での待遇を思えば、まだのびのびと暮らせる方だ。
女郎上がりの母が、外で生きるには少しばかり世間は規律に準じ過ぎた。

いや、それとも、母が鬼無里出身であることがいけなかったのだろうか。鬼無里には鬼女伝説が眠る。鬼無里の女は鬼だと、そんな極端な思想が無きにしもあらずといったところだろう。隠れるように、逃げるように、過ごした記憶がある。
ならばそんな故郷に思い入れなどないだろうとも思う。だが育った地というのは、それだけで愛着が沸くものだ。四季折々の匂いも色も、この眼窩に焼き付いた景色は皆懐かしさと共に甦る。

――止めていた足を再び進め出す。
はて、私は何処を目指していたのだろう。
そんなことを思索しながら、歩みの先にいる背中に小首を傾げた。風に浚われるその長い黒髪は、広い背中で無様に散らばった。……もっとも、女ではないのだから、髪に拘りはないのだろう。再び止まる足に、手桶の水が裾に跳ねる。

この辺りは、一般人が易く立ち入る場所ではない。人里離れた山奥だ。年に一度、神社があった名残から、祭りで人が集まる程度である。それ以外でここに来る人間はいない。在るのは自然と獣と嘗て神社だった陋屋くらいだ。寄りつくのは姨捨やら子捨てやらの下見に来た輩か賊か物好きだ。

またあの物好きは来たのか、とその黒髪に近づいた。

「またお前か」

人影がこちらに見向きもせずに呟いた。
ざわざわと風に煽られ、鳴り出す木々に体温がさらわれる。羽織を持ってくれば良かった。少々肌寒い。無意識に込めた右手の中に、柄杓が握られていることを思い出した。……ああ、そういえば、母の墓参りに向かっていたのだったか。懐に入れていた線香の存在を思い出した。

「何か、見えましたか」
「お前には何か見えるのか」
「さあ」

出会いがしらの常套句を口にし、私はそっと彼の隣に並んだ。盗み見たその貌は、相変わらず面の向こうに隠れていた。表情が読み取れない。感情が読み取れない。無機物の向こう側に隠された硬質な思惟を覗こうとすることは、井戸の底を覗くような不安感があった。
――まるで、お人形さんみたい。そう言った私に、彼は沈黙で返した。

彼と初めて出会ったのは、1年近く前だっただろうか。明確なきっかけも理由も、今ではもう思い出すこともできない。気が付いたら彼とこの場所で会い、1年が過ぎていた。彼と会うのは月に一度の時もあるし、三日に一度の時もある。気まぐれに、ただそこに居合わせただけの存在だ。
互いに互いを追及することはない。何も知らない。私は彼が何者で、何故こんな辺鄙な場所に訪れ、何が目的なのか、何ひとつとして知らない。
ただ訪れれば声をかける。それだけの存在だった。

友人、と呼んでもいいのだろうか。いや、彼はきっと面の向こう側で至極嫌そうな顔をするに違いない。
そんな空想をくるくると巡らせ、人知れず苦笑を零した。足元で木枯らしがくすりと笑う。
爪先で枯葉の乾いた音を踏みしめながら、彼の向こう側にある大樹に寄った。

この大樹は、母の墓標である。
満足な供養もできずに、この根本へ眠らせた私を母は怒るだろうか。
それとも、この大樹が咲かせる花を愛でていた彼女なら、喜ぶだろうか。
後者を迷いなく思い描いていた無垢な幼子であった私は、遠い昔に朽ち果ててしまった。
柄杓の水を木の根元に向かってばら撒く。そして身を屈め、線香に灯をともして樹の根本に沿える。立ち上る真新しい死の香に、両の手を合わせた。

「母親の墓だったか」
「ああ、話したことありましたっけ」
「よくも飽きもせずにここに来る」
「見えるものもないのに、ここに来る貴方ほどじゃありませんよ」

線香の煙が視界を煙らせた。目尻を突くそれに、そっと目元を拭う。立ち上がり、彼の面を見詰めれば、その眇からは赤い瞳が覗いた。
紅葉と同じ色だ。
優しいとも悲しいとも、禍々しいとも取れる色だ。

赤は好きだ。
母が着せてくれた七つの帯解きの振袖も、紅葉を散らした赤だった。
そういえば、その時の振袖は何処にしまったのだったか。
それとも、前の村と共に戦禍に焼かれてしまっただろうか。

風が吹き抜ける。どうにも冷たい。あまり外に長居しては身体に障るだろう。

「戻りますね」
「……」
「貴方もほどほどに帰った方がいいですよ。今日は冷える」
「この世界に」
「!」
「帰る場所など、あろうものか」
「……おかしなことをおっしゃいますね」

抽象的な意味で問うているのか。それとももっと現実的な意味で口にしたのか。後者であるなら、彼が里から抜け出した忍の類だろうということが予想できる。こんな辺鄙なところに来るくらいだ。一般人でないことはわかる。
では、仮に前者であるなら――それはおそらく私だ。
立ち上がり、踵を返す。

「では、失礼しますね」

またご縁があれば。
付け足した言葉に、彼は私から目をそらした。いつまでそこにいるのだろう。そんなところにいても、何もありはしない。ただ麓の集落や少しばかし遠くにある里の顔岩が見えるだけだ。何も面白いものはない。

この場所には、何もない。

空になった柄杓が、カランカランと手桶を打ち鳴らす。
そういえば、近々祭りがあった気がする。



20130126


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