最後の鳥居を潜った。どうやらその上にも、いないらしい。誰にも見られていない。そっと安堵の息を置いた。
真っ赤な夕焼けが景色を灼く。血とも業火とも言えぬ真紅が視界を染め上げていた。その縁には闇が迫って来ており、滲んだ藍が赤を侵食し始めていた。腕の力を入れ直す。ゴツリとした冷たさが体温に食い込んだ。
ーー瞬間赤子の鳴き声が鼓膜を叩いた。辺りを見回すが、遠くにはただぽっかりと口を開けた暗闇が広がっているだけである。視界の片隅で、何か小さなモノが駆けていく。玉虫色に光る2つの目玉が、こちらを見た。縦に割れた瞳孔が、不快な音を上げる。猫のようだ。猫が引きつった声を上げて駆けていく。どうやら、先ほどの声は赤子のものではなく猫の鳴き声のようだ。暗闇に溶けるような毛並みを靡かせ、くるりと身を翻した。どこか不自然な動作で駆けるそれに目を凝らす。片足を無くしているようだった。
そのまま鳥居を背に、無数の卒塔婆が立ち尽くす荒野を行く。茫々に立ち尽くす草木が、乾いた土埃を纏って揺れた。
目指す場所などなかった。しかし、そこから離れなければならないことは知っていた。卒塔婆に知人の名前があった。しかし見ないふりをする。引きつる喉を押し殺し、走る。暗がりが頭上を覆った。すると遠くに真っ黒に塗り潰された人影が見えた。
嗚呼、見付かってしまったのかもしれぬ。
渡すまいと腕に力を込めた。影が此方に近づく。ーーいや、自分から近付いたのだろうか。振り返る影から、音が奏でられた。
「骸から、枯れ木が伸びています」
小袖を着た女のようだ。袖口から伸びた白い手が、ゆるりを宙を掻いた。骨のような指先が、この腕の中にあるものを指す。ぶるりと身体が震えた。膚を舐めあげる風がやけに生温かった。額を汗が滑る。それを袖で拭いながら、目の前の影を見た。
ざわざわと鳴る草木が暗闇を呼んでいる。何かが近付いてくる。ふ、と息を呑み込んだ。
「知りませんか」
あの子を、知りませんか。
女は真っ黒な目玉を瞬かせながら言った。
井戸の底のように真っ暗な瞳だった。
そっと腕の中の「彼女」を見た。「彼女」が笑う。いや、笑っているかどうかはわからぬ。ただ、そう見えたのだ。あれはお前の母か、そう問うと、「彼女」の眼窩から冷たい風が吹き抜けた。
「あの子を、知りませんか」
ガランと音を立てて腕の中の「彼女」がすり抜けた。足元に散らばる白色は、乾いた音を立てて地面に叩き付けられる。土埃が舞い、視界を煙らせた。かさついた空気が咽喉をざらりと撫で、小さくせき込む。身を屈め、「彼女」を拾い上げながらもう一度腕に抱えた。カラカラと木柾のような音が響いた。
「知りませんか」
女が首を傾げた。よく見れば、着物の腹部から下が赤く染まっている。紅葉を散らしたようなその柄の裾を引きずりながら、女はゆっくりと瞬きをした。その瞳を見詰め、躊躇うように首を左右に振る。彼女は至極痛みにたえるような苦しげな顔をした。此処にはいない。その事実に、真っ黒な目玉が濡れる。迷子の我が子を懸念する、母親の顔だった。ゆらりとその背が向けられ、女は覚束ない脚で歩き出す。そして夕闇の中へと、溶けるように消えてしまった。
腕の中のしゃれこうべを見詰める。
その小さな亡骸を抱き、荒野を進んだ。
20130101