魔が差したのだ。
自棄を起こしていた。
そんな気分だった。
存外恐怖もない。
たった一歩、踏み出せば、私の将来は至極簡単に変えられたのだ。

だから私は自ら、自宅の階段から転落した。
全身を打ち付けながら、体が落ちていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、底が見えない何処かに、落ちていった。

救急車で運ばれた。
事情を聞かれた時は、眩暈がして、足を踏み外したと答えた気がする。
お腹の子は亡くなっていた。
あの人は泣いていた。
私を慰めた。
私は泣いた。
安堵した。
腹から子が消えたと知って、解放されたと思った。

「これからの人生、あの檻のような家で、子供に時間を食い潰されるだけなんて、酷い話でしょう」

本当に、酷い話だ。
それだけだった。
たったそれだけの、自暴自棄で、私はあの人の子供を殺した。
私は慰められるべきではない。
責められるべきだった。
責めて、欲しかった。
そうしたら、離婚に対する罪悪感も、あの人を愛せなかった罪悪感も、綺麗に纏めることができたのだ。

「殺したんです」

爪先で雪を踏みつぶす。
あれから話をするのに場所を近くの公園へと移した。ブランコや滑り台といった遊具は、分厚い雪に覆い隠されている。鉄棒に寄りかかりながら、私は雪が積もったベンチを眺めた。そして自嘲気味に言葉を吐き出した。彼は足元の真っ白な雪のカンバスを踏み荒らしながら、私を振り返る。

「憎かったのか」
「……知ってますか?」
「……」
「愛することの反対は、無関心なんですよ」

私は、もしかしたら。
そんな空想が頭を巡る。

「私が幼稚であっただけなんです。あの人は悪くない。尽くすふりをする一方で、私は愛せなかった。子供も夫も、重荷に感じてしまった」
「……」
「もし貴方の奥様を愛していないという事実が本当ならば、私はその気持ちの片鱗に共感はしますよ。なんて、本当に、最低な話だ」

ボロボロと、意味もなく涙が零れた。憎んでなどいない。嫌っていたわけではない。ただ、わからなかった。私には理解できなかった。共に過ごすことを苦痛に感じてしまった。それが如何に利己的な言い分であるかはわかっている。
私は最低だ。
酷い人間だ。
幼稚で、自分勝手で、臆病で、まるで駄目だ。
あの人を深く傷付けた。
そして自分は逃げ出し、優しい過去に甘えている。
いつか、この罪を糾弾される日が来るだろうか。その日を待ち望みながら、怯え、罪悪感に苛まれて生きて死ぬのだろうか。

遠くから子供の笑い声が聞こえる。得体の知れない恐怖が、尾を引きながら漣のように押し寄せては引いていく。
刺すように冷たい風が肌を掠めた。

「後悔しているのか」
「後悔というより、罪悪感ですね。死んでしまいたくなる」

袖口で顔を拭いながら答えると、彼は遠くを見据えて息を吐いた。白が宙に溶ける。

「――父が、決めた婚約者だった」
「!」

たっぷり間を置いて、彼は虚ろな目で呟いた。
白い横顔が、感情の一切を消し去って言葉を吐いた。

「真似事はできた。適当に睦言を吐けば彼女は喜んだ。詰まらない女だと思っていた」
「……」
「邪魔だと、思わずにはいられない自分がいた」

彼の視線が空に向く。灰色の雲が、遠くから静かに忍び寄ってきている。また、降るのだろうか。

「だが、消えてしまうと、存外虚しく感じるものだな」
「……愛していないわけじゃ、なかったんですね」
「知るか。ただ、お前は彼女と似ていた節があった。オレを、許しはしないと……。オレは」

彼が言葉を切る。視線は落とされ、踏み荒らされた白が視界に広がった。弟を失い、母を失い、伴侶を失った。愛する人を失い続けた彼の精神は、麻痺してしまっているようにも思えた。
不意に、彼の指が目蓋に触れた。氷のような指先に、私は思わず眉をひそめた。目元を拭うそれに目蓋を下ろす。

「オレは、誰も愛さない」
「……」
「誰も好きになったりはしない」
「マダラさん」
「独りでいい。独りで、生きていく」

――それが、オレが自身に架した罪悪感に対する罰だ。

彼の指先が離れる。彼が背を向ける。遠ざかっていく。
空は灰色に覆われた。





眩暈がした。
だから、足場が不安定になる。立ち位置がわからなくなる。均衡を失った体は、落ちていく。ゆっくりと、深く、静かに、落ちていく。

私と彼の共通点は何だっただろう。
私と彼の異なる点は何だっただろう。
彼も私と同様、不安と恐怖と罪悪感に押し潰されてしまいそうだったのだろうか。
灰色の景色に溶けていく背中が脳裏に焼き付いて離れない。
あの背中に寄り添うはずだった人はいない。
彼はその孤独を背負って生きていく。

しかし、願わずにはいられない。彼にも、倖せが訪れることを。



――車体が大きく揺れる。慣性のままに引きずられた体に、私の意識は浮上した。目蓋を持ち上げると、眼窩に痛いほどの無機質な蛍光灯の白が突き刺さる。視界で吊革が不揃いに揺れる。次いで響いた駅名に、あと2駅ほどで降車駅であることを知った。


誰もいない深夜の夜行列車の中で、意味もなく泣きたい気分になった。





20121220


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