ホテルに到着し、部屋に戻り喪服を脱ぎ捨てる。軽くシャワーを浴び、冷え切った体を温めるために暖房をつけた。頭が痛い。何故だかひどく疲れた。ベッドに身を投げ出し、サイドテーブルの上に投げ出された携帯を手に取る。時刻は17時になるころだった。日が姿を見せる時間の少ないこの季節では、外は真っ暗だ。雪もまだ降り続けている。ほの暗い灰色に覆われた外界には、崩れるような勢いで雪が降り注いでいた。

『誰が愛した』

うちはマダラの声がリフレインした。愛されなかった妻。気の毒な花嫁。悲劇の女性。式場で見た遺影の女性が脳内に焼き付いて離れない。
所詮、名家の結婚など政略に満ちた愛のないものなのだろうか。凡人には理解しがたい話だ。
――そう、思う反面、私は懐古の念に激しい罪悪感を抱く。
自身の腹を撫でる。
其処には何も宿ってはいない。遠いその日に、それはあまりに容易く流れてしまった。仕方のないことだと、前夫は私を慰めた。彼は知らない。だから私を慰めることができる。本当の理由も、原因も、私だけが知っていればいい。水子の供養も、私だけがすればいい。時折夢に見る赤子の泣き声に、私は震えるほど恐ろしくなる。

だが、仕方ない。
それは、仕方がなかった。
私が全て悪かったのだ。

途方のない恐怖感が、不意に意味もなくこみ上げてきた。
息が詰まる。
深い深い海の底に、沈んでいくような不安が蘇える。
身体にまとわりつく水圧のような不安だ。

手に持っていた携帯の着信履歴を開く。倖せを前にしているのに、躊躇いがないわけではなかった。それでも「彼」は、私を「親友」だと甘やかしてくれた。私はいつも、その優しさに甘えていた。
彼が、彼が優しかったから。
だから私は、前夫を――愛せなかった。

発信ボタンを押す。4回コールが響いた後に、まるで全てを許容するような深く優しい声が、鼓膜をゆすった。

「どうした?」
「突然ごめん。今大丈夫だった?」
「ああ、今日は非番だったからな」
「あらあら。もしかしてリンとお出かけしてた?」
「家でおとなしくしてたよ」

苦笑する声に、どうしようもない虚しさがこみ上げてきた。それを飲み下そうと、私は無意味な乾いた笑いを零す。

「久しぶりだな。いろいろあったそうだな」
「まあ、自業自得というか」
「まだ若いんだ。何度でもやり直せる。あまり自分を追い詰めるなよ」
「オビトくんは優しいねえ」
「からかうな」
「いや……ありがとう。からかってないよ、感謝してるよ、オビト」

受話器の向こうで彼が苦笑した。どうしようもなく、目蓋が熱くなる。わかっているのだ。彼には婚約者がいることも、彼の気持ちが私には向かないことも。それでもこうして縋ろうとするのは、私が子供な証だろう。

「結婚式はいつなの?」
「ああ、予定では再来月だ。そのうち招待状を出す」
「リンの花嫁姿楽しみだな」

オビトは、私の初恋だった。今でも忘れられない。だから彼に似たあの人と結婚した。忘れるはずだった。それができなかった。私は、残酷なほど子供だった。
あの人の子供を身ごもった途端、恐ろしくなったのだ。私にとって、結婚生活など飯事の延長線上のものだった。

あの人の、子供を産む自信も、育てる自信も、私には全くなかった。
――本当に愛していない男の子供に人生を食い潰されるなんてごめんだ。
だから流産した時、本当は安堵したのだ。
全身にのしかかっていた恐怖も不安も、子供と一緒に流れて消えた。
しかしのちに耐えきれないほどの罪悪感に襲われた。
あの人とは、流産を適当な理由にして別れてもらった。

私は、逃げ出したのだ。

「name?」
「……ああ、ごめん。なんでもない」
「……」
「オビト」
「なんだ」
「ううん。なんでも、ない。ありがとう。いきなりごめんね」
「いや……。近いうち、カカシとお前とリンとオレで飲みにでも行こう」
「いいね。楽しそう」

私が笑うと、彼も小さく笑った。そして適当に2、3言の言葉を交わした後に、そっと電話を切った。ぶつりと彼の声が暗闇に切れる。滲んだ視界を袖でぬぐい、息を吐き出した。

ベッドに身を投げ出し、携帯を放り投げる。

「なんだ……。私も同じか……」

愛した人に愛されなかった。
だから似ている人を探して愛そうとした。
そしてその置き換えに失敗した。
齟齬に絶望し、現実から目をそらし、直面した現状に怯えて逃げ出した。

目を閉じる。
どうせなら、「今」が悪夢で、覚めたらオビトたちがいる「現実」に戻れたなら良かった。





翌日になると、案の定雪はぶ厚く積もっていた。喪服で再び電車に乗るのは気が引けたので、あらかじめ私服を一着持ってきていた。それに着替え、荷物をまとめてホテルを出る準備をする。チェックアウトの時間まではまだあるが、長居する理由もない。早々に部屋を出て、チェックアウトを済ませて駅に向かった。
雪かきがされたホテルの周辺は、比較的に歩きやすくなっていた。道路もある程度車の行き来があったのだろう。雪は端の方に追いやられ、沈黙している。
青く澄んだ晴天は、濃い冬の気配を纏ってこちらを見下ろしている。

「おい」
「!」

信号を待つため、ぼんやりと歩行者用信号の赤い色を眺めていたところ、不意に背後から声がかかった。振り返ると昨日見た漆黒がこちらを睨むように佇んでいる。
黒のモッズコートに、寒そうに顔半分をマフラーに埋めた彼の姿は、昨日見た喪服姿よりも若いものに見えた。

「マダラさん」
「……」

彼は無言で私に右手に持っていたものを差し出した。私が昨日貸した折り畳み傘だ。律儀に返しに来たのか。目を丸くしながらそれを見ていると、彼は露骨に不快そうに顔を歪めた。それに慌てて傘を受け取る。彼の顔からは表情が消えた。

「安いものですから。別に捨ててくださって構わなかったのに」
「……」
「あの後、ちゃんと火葬場に行きましたか?」
「……ヒカクに、ひどくどやされた」

ヒカク。昨日参列した際、漏れ聞いた話だ。彼は学生時代に弟を亡くし、その数年後に母親を亡くしたらしい。父親は大手企業の社長のため、家のことにはほとんど関心がなかった。ヒカクという人物は、彼の面倒を見るために親族が寄越した彼の世話係のようなものであり、また、彼の兄弟のような存在でもあるらしい。
……過去に弟と母を亡くし、挙句の果てに伴侶を失ったのだ。彼の人生も、些か恵まれているとは言い難い。
信号が青に変わった。

「お前」
「! はい」

しかし彼に呼び止められたことにより、私はその信号を見送ることになった。受け取った傘をもたついた動作でバッグの中に仕舞い込みながら、彼に視線を戻す。いつの間にか目の前まで迫ってきていた彼に、私はつい一歩だけ後退した。

「離婚しているらしいな」
「……まあ、一応」
「調べさせてもらった」
「調べるって……そんな別に特別なことなんて何も」
「似ていた」
「!」

おもむろに、彼の指先が私の目元に触れた。氷のような指だった。冷たさに、ぞくりと鳥肌が立つ。

「彼女の右目の下にも、泣きボクロが――」

彼の言わんとしていることが、なんとなく察せられた。
彼女、とは、亡妻のことだろう。
彼の黒い瞳が揺れた。
冷え切った指先が、心なしか震えている。
死んだ妻が化けて出てきたとでも思ったのか。
子供を流した私が、数日間聞こえもしない赤ん坊の泣き声に苛まされていたものと同じものだろう。極端な神経質状態では、恐怖の対象は般化され、共通点が1つでも一致すれば全てがそう見える。だからそれを連想されるものを極端に避ける。私はそうだった


「私は、取るに足らないありきたりな駄目な女ですよ」
「……何故離婚を」
「聞きます? 調べたなら知っているでしょう?」

敢えて揶揄するように、挑発的に言葉を紡いだ。彼の表情は変わらない。感情がごっそりと抜け落ちた顔が、訝しげに傾げられた。

「事実は真実とは異なる」
「哲学的ですね」
「はぐらかすな」

はぐらかしているわけではない。ただ思ったことを言っただけだ。彼の瞳は少しずつ剣呑さを宿し始めている。私に亡妻を連想させるパーツがあるから、それを解消したくてわざわざここに来たのだろう。
解消できたとしても、事実は変わらない。
現に私はきっと逃げながら逃げ切れてはいなかった。
だからオビトに縋るのだ。
前夫に対する罪悪感を誤魔化すために、全てをオビトに対する未練に置き換えることで、過去に羨望することで、今から目をそらしているだけだ。

誰かのせいに、したいだけだ。

「そうですね、強いて言うなら」

――私が身籠ったあの人の子供を、私が殺したからですよ。


私はあの人が喜んだ命を、自らの手で落とした。
その罪の意識から逃れられない。


20121219


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