冷たく鋭く網膜に刺さる景色は、まるで遺影のように寂れて見えた。

終電に乗り込んだのは、22時前のことだったと記憶している。改札にもホームにもほとんど人はおらず、ただ褪せた蛍光灯の白が空間の色を奪っていた。12月も半ばになると、夜は凍えるように冷える。冬が深まるこの時期に、防寒を怠った自身の恰好を呪いながらホームで10分ほど過ごした。吐き出した白い吐息が視界に散らばるたびに、悴んだ指先をさする。延々と響いている番線案内のアナウンスが、鼓膜にべったりと張り付いて木霊していた。

ようやく訪れた電車に乗り込んだ頃には、体はすっかり冷え切ってしまった。暖房が程良く効いた車内の淀んだ空気を吸い込む。寒さの為に強張っていた肩が弛緩し、途端に日頃の凝り固まった疲労が容赦なく全身にのしかかった。泥ついた微睡みが意識を浸食する。
自分以外乗客のいない車内は、途方もなく広い空間に感じた。
時折車窓が映す、煌びやかな街のネオンの色がやけに胡散臭いものに思えてしまう。まるで駒送りされる銀幕を眺めているようだ。
しかし人工物とは、そんなものだ。人が作る以上、それは確実に欠陥を孕んでいる。どんなに塗り固めようと、どんなに重ねようと、どんなに磨こうと、どんなに手入れを徹底しても、人の作品は決して「完全」にも「完璧」にもなれない。せいぜい「完成」を模倣できるだけだ。

――そっと、自身の腹部を撫でる。

傍らのバッグを膝の上で抱え直し、私は息を吐き出した。















前夫と離縁したきっかけは、私の流産だった。
ごく平凡な家に生まれ、ありきたりな人生を歩んでいた。前夫との出会いも社内恋愛の真似事から始まった。結婚に至るまでの過程も一般的で、2年の付き合いの末に彼から指輪を渡された。私には否定する謂われも不利益もなかった。互いに人柄もよく理解していたし、妙な遠慮もなかった。互いの両親も快く承諾してくれた。籍を入れたのは、3年前の12月だった。

結婚生活も不満はなかった。彼は尽くしてくれたし、私もまた尽くしたはずだった。子供ができたのは、結婚して半年経った頃だ。彼は喜んでくれた。名前は何が良いかとしきりに食事の時の話題にしてきた。順調で、ありきたりな、絵に描いたような倖せな家庭だった。

……私は、どうしてだろうか。それに耐えられなかった。

――車体が大きく揺れる。慣性のままに引きずられた体に、私の意識は浮上した。目蓋を持ち上げると、眼窩に痛いほどの無機質な蛍光灯の白が突き刺さる。視界で吊革が不揃いに揺れる。次いで響いた駅名に、あと2駅ほどで降車駅であることを知った。

バッグを抱え直し、深く息を吐き出す。何気なしに俯いていた視線を正面まで持ち上げると、向かいの席に男が座っていた。

僅かに思考が止まる。まさかこの時間に乗ってきた乗客がいたとは思わなかった。私が乗車した駅から今の駅まで、間で4つほど停車駅があったと思う。その何処かで乗ってきたのか。15両編成であるのに、他の車両ではなく同じ車両に居合わせた。偶然とはいえ、この白々しい空間を共有しなければならないことに気まずさを抱かずにはいられなかった。

そっと盗み見るように男性を見る。深く首を擡げ、ぴくりともしない。寝ているのだろう。髪が長く、顔が隠れてしまってわからないが、おそらくまだ若い。仕事の帰りなのか、スーツにコートという服装だった。

無為に男性を観察していると、コツリと、小さな衝撃がヒールを突ついた。反射的に足元を見る。何かが蛍光灯を反射してきらりと光る。身を屈め、指先でつまみ上げると、それが指輪であることがわかった。
……私のものではない。私はもうずいぶんと前に外して捨ててしまった。指輪があの頃の象徴であるなら、私は当時の自分を殺す思いでそれを切り捨てなければならない。それが私なりのけじめであり、あの人に対する誠意だとも思っていた。

向かいの席の男性を見る。
彼の物だろうか。シンプルなそれは、エンゲージリングのようにも見える。そんなことを考えていたら、ガタンと車体が揺れ、膝の上にあるバッグがズルリと滑る。

声をかけるのに強い躊躇いはあった。彼の物である保証なんてないし、彼の眠りを妨げる罪悪感もある。ましてや他人だ。しかしこんなものを私が持っていても仕方ない。青年のものだったとして、後々なくしたと思わせるのも気の毒だ。

気怠げなアナウンスが響く。もうじき私は降りなければならない。車体の揺れに逆らいながら、私は男性に近付き、「すみません」と声をかけた。ビクリとその肩が震える。おもむろに持ち上げられた相貌は、思いのほか若い青年のものだった。まだ、20代半ばかそこらだ。私と同じか、少し上くらいだろう。
青年は暗く虚ろな瞳に私を映し、怪訝に眉をひそめた。

「すみません。落としませんでしたか」
「……」

私の顔から手のひらへ、青年の視線が緩慢に移動する。途端に意識が覚醒したのか、彼は目蓋を一瞬だけ震わせ、そっと私の手のひらにある指輪を指先で摘んだ。……ひどく冷たい指先だった。

「……オレのものだ」

確認するように声が零れた。濃い疲労が滲んだ、かすれた声だった。よく見れば、目元には深い影が居座り、顔色も良くなく映る。白色の蛍光灯のせいか、古びたモノクロのフィルムの映像を見ているようだった。端正な顔立ちからは彫刻のような印象を受け、現実感が遠ざかる。

同時に車体が止まり、私の体は大きくぐらついた。慌てて手すりを掴む。しかしバッグは腕の中から滑り落ち、鈍い音を立てる。空気の抜けるような音と共にドアが開いた。

「……大丈夫か」
「すみません」

私が落としたバッグを、彼は無表情のまま掬いあげる。そして差し出されたそれを受け取り、バランスを整えながら抱え直した。幸い中身は散らばっていない。ほっと息を吐き出し、もう一度改めて青年に礼を述べた。彼は依然として無表情のままだ。気にするな、という抑揚に欠けた言葉だけが空間に響いた。

そして私がドアに向かって歩き出すのと、青年が立ち上がるのは同時だった。
同じ駅で降りるのか。
彼の気配を背中に感じながら、私は逃げるように早足でホームを歩いた。
車内で身にまとった暖気は剥離し、身を着るような冷たい空気が肌を指す。ホームから見える冬の空は、黒く塗りつぶされた薄氷のように冷たく張りつめていた。……明日の告別式に参列するときまでには、何か防寒着を購入しよう。

改札まで来たところで、私は一瞬だけ後ろを振り返ってしまった。
するとちょうどホームの階段を登りきったらしいあの青年の姿が見えた。

目が合った気がした。
暗闇に溶け落ちてしまいそうな色を纏い、彼は私に何かを言った気がした。




20121218


×