それが報いならば、甘んじて受け入れたのだろう。
それが赦しなら、躊躇いなく拒絶したのだろう






覗いたカーテンの向こう側は晴天だった。細い隙間から漏れ出す日差しは、白い亀裂を影の中に突き立てる。おもむろに伸ばした手で、カーテンを無造作にスライドさせる。同時に大量の陽光が部屋の中に押し寄せてきた。

今日こそは庭の掃除をしよう。最近は天気が悪い日が続き、思ってはいても実行できないでいた。天気予報でも今週は今日くらいしか晴れの日がない。今日やらなければ、おそらくまた手をつけずに放置してしまう日々になってしまうだろう。自分に言い聞かせて体を起こす。覚醒しきらない頭を引きずるように上体を起こし、深く息を吐き出した。夢の余韻なのか、体に水圧が纏わりつくような、そんな重たい倦怠感がある。何気なしに見た傍らにある時計は、午後2時半を指している。
……寝過ごした、と思わずにはいられない時間に、深く息を吐き出す。

最近は毎日のように寝坊している。確かに夜寝るのが遅いということも原因だろう。しかしこうも繰り返していると、いい加減自分自身に呆れてしまう。傍らにセットしたはずの目覚まし時計も、床の上で横たわっている始末だ。なによりもそのたびに見る不可思議な夢も、また精神的に負担になりつつある。

(この間も、結局寝坊して仕事の面接に落ちたし)

いっそのこと、眠らないという選択肢を選んでしまおうか。投げやりな選択肢を作り出しては苛立ちを噛み殺す。
数日前にも同じ煩悶を繰り返していたのだ。その気晴らしに庭の掃除をしようとして雨が降られては、嫌でも気が鬱ぐ。たたみかけるように訪れたNと彼の質問には、自棄にならずにはいられなかった。
――何をやってもうまくいかない。
向いていない。要領が悪い。効率が悪い。素質がない。
仕事においても、過去の学生生活においても、人間関係においてもそうだった。その割に、失敗を外部に帰属させるのは得意だった。理由をつけて自分を納得させ慰め、だらだらとここまで生きてきた。いや、「生きてきた」などと主体的なものでもなかったかもしれない。





この家の庭には、母が趣味で植えた白いアザレアがある。趣味、といっても、ほとんど気まぐれに近いだろう。あの人にガーデニングという恒常的な行為はなかった。だからといって父にあったわけでもない。ほんの気まぐれで、その花はそこに佇んでいる。

『そのうちきっと、綺麗な花が咲くのよ。白いアザレアには、愛することを知った喜び≠チて花言葉があるの』

母の言葉がそっと懐古される。頭蓋の内側で反響する言葉は、記憶の淵で延々と繰り返されていた。
なら、その愛も喜びも、気まぐれだったのだろう。気まぐれに植えられ、運良く花を咲かせ、皮肉にも枯れずにそこに在る。今ではただそこに沈黙して在るだけの虚しい樹木だ。
……それでも今から手入れをすれば、咲くのだろうか。
ぼんやりとそんなことを思索しながら、庭に向かうべく玄関のドアを開けた。

――同時に見慣れた色が視界を掠め、反射的に動きが止まる。

アザレアの傍らに立ち尽くす痩身の影に、思わず苦笑が浮かぶ。彼は私に気付くなり薄い笑みを顔に貼り付けた。
彼が勝手にこの家に入ってくる、ということには今さら何の驚きもない。彼は私が在宅していると分かっていれば、気兼ねなく家の中に入ってくる。もちろんそれを私は了承しているし、彼自身、倫理的に際どい部分には踏み込んではこない。
しかし庭で一体何をしていたのだろう。大抵の時は家に入ってきている彼を思うと、今更遠慮しているということはないだろう。

「何してるの」
「キミが起きるまで待とうと思っていてね」
「別に勝手にリビングまで入ってきちゃって良かったのに」
「うん、でも待っていたら偶然見つけたんだよ、ほら」

樹の傍らにいるNが手招く。それに誘われ、歩を進めると、彼は生い茂る葉をかき分け指差した。緑に埋もれた中に、ぽつりと白が顔を覗かせる。それは何枚もの花弁が固く閉ざすように身を強ばらせていた。蕾だ。
小さく幼い蕾が、寥々と呼吸をしていた。
何年も放っていたというのに、植物の生命力には驚かされる。確かに枯れていないことはわかっていたが、まさかまだ花を咲かす余力があるだなんて思ってもみなかった。――私が手をつけなければ、惨めに佇むだけの樹木だと、思い込んでいた。母が勝手に植え、自由に花を咲かし、好きに散っていくだけの花だ。しかし、人間の手が入らなければ朽ちるだけの器だ。私が自堕落的ならば、この花も惨めに実を結ばずに在るだけだと思っていた。驚きとも罪悪感ともつかない感情が、徒に肥大していく。
そんな私をよそに、Nは蕾を指差し、無邪気に問いを口にした。

「この花は何という名前なんだい?」
「アザレアってお母さんが言ってたかな」
「へえ」
「お母さんが植えたの。これ、記念樹なんだって」
「記念樹?」
「私が生まれた時の記念樹。花言葉が『愛することを知った喜び』とかで、お母さんが勝手に気に入って趣味で植えたようなもの」
「かあさん、か」

Nはどこか遠くを見るようにアザレアを見上げた。

「ねえ、カーヤの『かあさん』はどんな人?」
「別に特別なところなんてないよ、普通の人」
「でも、この記念樹を残したってことは、キミを大切に思ってるんだろ」
「さあ、どうだろ」

私は駄目な娘だった。
こんな体たらく、普通ならば知って呆れるだろう。しかしあの人は私を心配し、決して急かすように背を押すことはなかった。
諦められているのだろう。
もういいのよと、笑った笑顔が再生される。
それが愛かどうかなど、私にはわからない。
無意識に握り締めた手のひらに力がこもる。するとふとしたように、Nが口を開いた。

「――知ってるかい?」
「! なに?」
「母親がいない子どもは、発達上に何かしらの障害が生じるんだよ。マターナルディプリベーションって言ったかな。母性愛剥奪とも言うのだけど。本で読んだことがあるんだ」
「へえ」
「カーヤは愛されているから、大丈夫だね」
「……どうだろうね。Nの方が、ご両親には愛されていそうだよ」
「いないよ」
「え?」
「キミが少し羨ましいよ。ボクが持っていないものをたくさん持ってる。ボクのように、キミは不完全でも欠陥品でもない」
「N」
「なんて、ね」

冗談だよ、と彼は笑った。しかし笑みと共に弓なりに細められた瞳は、確かに憂いを抱えて濡れていた。私はかける言葉が見つからず、ついぞ口を噤む。
彼は付け足すようにおどけるが、嘘ではないことはわかる。彼がそっと開示した自己に、私は返すものが見当たらない。あまりに静かで唐突なそれに、私はただ視線を逸らす。こちらを見下ろすアザレアの蕾が、冷ややかに嗤っているような錯覚が去来した。

「……冗談たよ。だから、そんな顔をして黙らないでくれ」
「!」

俯き続ける私のすぐそばに彼は佇み、そっとその両手を持ち上げた。その白い両手は私の両耳にそっとあてがわれた。外界の音が遮断される。顔を上げると、彼は額を私の額へと押し付ける。彼の帽子が地面に落ちた。目の前にあるシャドーブルーの瞳には、確かに涙が溜まっていた。

どうか眠りに向かわないで

彼の言葉が耳に届くことはない。ただ、その唇が紡いだ言葉が、ひどく虚しいものに思えた。
そっと手を離したNは、まるで仮面を貼り付けたかのように笑う。訝しげに眉をひそめた私に対し、はぐらかすように彼は言葉を吐いた。

「なに、何て言ったの」
「秘密」
「……わけわからない」
「ふふ、何でもないよ。ただ、今日も雨だったねって」

彼は空を見上げる。視線の先は晴天だ。しかし片隅には分厚い雲が漂っている。もしかしたら、私が起きる直前までは俄雨が降っていたのかもしれない。気付かなかった。

「ああ、そっか、キミは眠っていたから、雨には気付かなかったかな」

Nの言葉に私は何故か酷く責められているような気分になった。ついぞ俯くと、彼の足元には白い紙片のようなもの散らばっていた。――いや、紙片ではない。花弁だ。

彼の足が、アザレアの蕾を踏み潰していた。





20120727





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