その手を取れば、私は救われたのだろうか。
この暗い海から、掬われたのだろうか。





送っていく言った彼の厚意は、改札を抜けると同時に切り離してしまった。夜道とはいえ慣れた道だ。家もそこまで遠くはないし、治安も悪いわけではない。民家も多い。そこまで一人歩きを懸念する必要性も特には感じなかった。家まで送ってもらうほどのことでもない。
……しかし彼が一体この辺りに何の用があったのか、結局聞くことはなかった。下車駅に着くまでの間、どことなく沈んだ様子に見えたことを思うと、良い用事があるとも考え難い。昼間は「怖い人」に会い、夜は気の進まない用事とは、彼にとっては災難な1日だっただろう。

Nと別れた後、駅からは徒歩で自宅に向かった。街灯が点々と囁くように路面を照らす帰路は、不気味に静まり返っている。コツンコツンという硬質なヒールの音だけが鼓膜を突いた。延々とすら感じるその音の感覚に、波間に浮かんでいるような不安定感を覚える。
深海に沈んだかのように暗く音のない空間は、最近よく見る海月の夢を思い出させる。
あの夢を見るようになったのはいつからだろう。
ここ数日、というほど近いものではない。もうずっと長いことを見ていた気がする。ただ、それを認識するようになったのは最近なのだ。Nに出会って以来のような気もする。だからといって、彼と夢が関係あるなどという御伽噺のような必然を信じているわけではない。

――むしろ、何かを忘れてしまっているような。

思考の片隅に付着した蟠りは、不規則的に意識を濁しては肥大していく。一体私が何を忘れているのか。
前意識を探ろうと見付からないそれらは、果たして抑圧されたものなのか。
意味のない思索を繰り返しては息を吐き出す。

すると不意に、携帯の電子音がけたたましく鳴り出した。着信だ。マナーモードにしていたと思っていたが、どうやら外れていたらしい。再度息を吐き出しては、着信画面に映る「アクロマ」の文字に目を見張る。
――ここ数ヶ月、連絡を取っている学生時代の先輩だ。

今となっては、そのきっかけを思い出すことがどにもできない。しかし近況報告やら詰まらない話題できまぐれに連絡を取り合っている。学生時代の知人で連絡を今でもとっているのは彼だけだろう。
近いうちにお茶でもしないかと、一週間ほど前にメールを返したっきりだった気がする。だからと言って、電話がかかってくるとは思ってなかった。

ーーなにより私自身、彼の第一印象は苦手に近いものがあった。尚更こうして連絡を取り合うような仲になるのは考え難い。少なくとも私自らが進んで関わっていきたい思う人物ではなかった気がする。ただなんとなく同じ大学の、同じゼミの先輩だった。おそらくそれがなければお互いに名前も知らない人間になっていたのだろう。……過去の仮定を立てたところで、何の意味もないのだけれど。
それに、今現在すら彼が一体どんな職について何をしているかなど知らない。
必要のないことだと言われてしまえば、それだけのことだ。驚きながらも呼び出し音に応じる。
受話器の向こうからは、懐かしい声が響いた。

「はい」
「ああ、カーヤですか」
「お久しぶりです。どうしたんですか」
「いえ、ほんの気まぐれですよ」
「気まぐれって……」
「以前お茶でもしないかと話に出たでしょう。そのついでに、思い出したことがありましてね」
「?」
「来週辺りどうでしょう、貴女なら暇でしょう」
「嫌な誘い方ですね」
「これは失敬」

つい声のトーンを落とすと、彼は乾いた笑いを零した。
同時に、果たして彼はここまで積極的に人と接触を持ちたがる人種だっただろうかと、ふと思う。記憶の中にしまわれた学生時代の彼は、対人関係を蔑にするほどひたすら研究に明け暮れる科学者だった。特に私のような凡人には全く関心を示さなかったと思う。名前を覚えているのも奇跡だ。この数年で何かあったのだろうか。

「それで、何を思い出したんですか」
「いえ、大したことではないのですが、知人が最近入院したと聞いたのです」
「大変ですね」
「それで貴女を思い出しましてね」
「私は至って健康ですよ」
「それなら結構」

一体どう私を連想したのか気になるが、彼は昔から何を考えているのかわからない節がある。適当に流すように話しながら帰路を順調に進んでいた。そうして見慣れた道で、足が止まった。……同時に自宅の玄関の前に着いていたことに気付く。暗く静まり返った匣を前に、私の意識は一瞬だけぐらついた。
そんな私をよそに、彼は乾いた笑いを零しながら続けた。

「それと、ひとつ、尋ねたいことがあります」
「なんですか?」
「ゲーチスという男を覚えてますか」
「は?」

誰だ。
聞きなれない音に眉をひそめる。大学の教授か先輩だろうか。しかし私の記憶に該当する人間は見当たらない。しかし彼が知ってるということは、優れた人物なのだろう。
「誰ですか」と返すと、彼にしては、歯切れの悪い物言いで「なんでもありません」と返ってきた。
いまいち理解ができず、そうですか、と曖昧に返事を返しながら空いている方の手を雑にバッグの中に差し込む。その中に身を潜めている鍵を手探りで探した。ハンカチや財布、ポーチなどを引っ掻き回しながら、指先に触れた金属特有の冷たさをつかみあげる。取り出したそれを鍵穴に差込み、ゆっくりと回す。私の反応にも特に気に留めた様子はなく、彼は言葉を続けた。

「変わりないようで何よりですよ」
「最近メールで近況を伝えあっていたのに何を言ってるんですか」
「貴女は物忘れが激しい」
「失礼ですね。そこまでひどくはありませんよ」

ドアノブを回し、その中へと突き進む。履いていたパンプスを脱ぎ捨て、廊下の電気を点けながら家の中を進んだ。
――しかしどこか神経質にも感じる彼の言動には違和感を覚える。昔からこんな感じだったろうか。「ゲーチス」という人物にかかわりがあるのだろうか。再度記憶を手繰り寄せてはみるが、やはり思い当たる人物は見当たらない。
ただ純粋にその疑問に「そのゲーチスという人に何かあったのですか」と問を口にした。
彼は間をおいた後に、例えるならばと口火を切った。

「貴女が演じた台本を、継いでしまっただけですよ」





アクロマさんとは、来週に会うことが決まった。終始煮え切らない問答を繰り返し、収束がついたとも言えない状態で電話は切られた。結局「ゲーチス」という人物についても分からないままだ。どんな人なのかと聞いても、彼は答えてくれなかった。あまり隠し立てされると、それに比例して好奇心が湧き上がってしまうものだ。……最も、だからと言って無理に知ろうとするほど私は知に貪欲にもなれない。流されるままに再会の約束を取り付け、電波がブツリと途切れる音を聞いているだけだった。

(台本、ね)

回想の片鱗を拾い上げ、目を伏せる。……適当にシャワーを浴び、自室に戻ってきては疲労から深く息を吐き出した。濡れた髪を乾かしもせず、そのままベッドに身を投げ出した。肌に張り付く髪を指先で払いながら、寝返りを打つ。科学者が文学的な比喩を使うというのも珍しい。昔から彼は何を考えているのかわからない人だったが、会わないうちにそれに拍車がかかった気がする。

何気なしに見た時計は、午前2時を過ぎていた。






その日もあの夢を見た。深く暗い海の底に沈んでいく夢だ。私の体は溶けて海月になる。海月になってはさらに深いところに沈んでいく。――いつもはそこで目を覚ます。
しかし今回はその更に奥深くを目指していた。
冷たい濃紺の中を、暗闇だけを目指して進んでいく。時折全身を圧迫するような波に揺られては、か細く伸びた半透明の四肢が千切れた。千切れた四肢はそのまま海の色に融解する。血液などというものは出ない。

それからどれほど落ちていったのか、海の底で茫洋と立ち尽くす男性を私は見つけた。波の揺れに合わせて、男性の髪が揺れる。細く薄いその華奢な肢体が、海底の暗澹さにくすんだ。ぼうと青白く燐光を纏っているように見える影に、私の口のから水泡が弾けた。
ゆっくりと、彼はこちらに視線を向けた。

「眠ってはいけない」

彼の紅い虹彩が、この蒼く暗い闇の中で哀しげに光っていた。





20120720
修正20130120




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