Don't say it
Because I get worn down




下位認識、という言葉が美学の専門用語にある。曖昧にしか記憶にはないが、確か、認識に関するものであった気がする。曖昧なもの。混雑なもの。明晰なもの。個別概念。普遍的概念。思い出せるのは単語のみだ。それがどのように繋がるべきなのかは、わからない。
まるで、絵柄は分かれどピースが欠けた未完成のパズルを見ているようだった。ぼろぼろと抜け落ちていくピースは、本来あるべきその居場所を離れ、どこか暗く深い場所に落ちていく。絵はただの柄になる。
――そう、その感覚に、ひどく似ている。
欠けた部分のピースを持ちながら、はめるべき場所を私は知らない。






後頭部に感じる硬質な冷たさに、鉛のように重い瞼を持ち上げた。白く褪せた蛍光灯の光が、瞳孔を貫くように視界を埋める。ガタンと大きく揺れた鉄の匣の中に、次は終点だというアナウンスが流れた。左右に長く伸びる椅子には、人の気配はない。傍らに無造作に横たわる自分の荷物を抱え直しながら、車体が止まるのをぼんやりと認識した。
――降りなければ。
乗り換えなければならない。直通の電車があれば楽なのだが、この時間帯になってしまうとそれもなくなってしまう。体の芯に纏わりつく倦怠感を無理やり剥がすように体を起こした。

肌に張り付く冷気に、足を引きずるように電車を降りる。右の手のひらに食い込む重みに、気だるさを覚える。ホームに響き渡る乗り換え案内のアナウンスに耳を傾けた。……乗り換えの電車まで、まだ少し余裕がある。あと20分、と頭の中で呟き、ベンチを探した。電光掲示板の灯りを頼りに、ガランとしたホームを歩く。荷物を持っていることもあり、とにかく座りたかった。今一度荷物を抱え直す。
そうして辿り着いたベンチに、ゆっくりと腰を下ろした。

――面接が終わったのは、日暮れだった。
今回ので6社目だったか。前の仕事を辞めてから、1年近く経とうとしている。穴が空いた履歴書というだけで就職には不利だ。思うようにいかないことは知っていた。親族の目や周りの目も厳しくなりつつある。その場しのぎ程度にアルバイトをしているが、いつまでも今のままではいかない。親元を離れたのも、社会でひとりの大人として生きていくための決意表明のようなものがあった。
就職活動も自分なりには頑張っているつもりだった。そのたび、親族からは批判が飛んでくる。「自分なりの努力」では、甘えているも同然だ。もっと頑張れるはずだ。周りの人間を見ろ。同じように努力しろ。できるはずだ。

(私、頑張ってないのかな)

きりきりと胃が痛んだ。
それを誤魔化すように、荷物を抱える。
じっとりと滲みだす疲労感と倦怠感に深く息を吐いた。

早く電車は来ないだろうか。
……本当はもう1本早い電車に乗るつもりだった。しかしほんの1分2分の差でこの時間の電車になってしまった。
思考にべったりと張り付いた眠気を噛み殺しながら、再度時計を見ては深く息を吐き出した。

「やっぱりカーヤだ」
「――!」

不意に肩に小さな衝撃が走り、驚きに体が跳ねる。気配も何もなかった。いや、気付かなかっただけかもしれない。爪先の影に、細く薄い影が重なる。振り返った先には、見知った色があった。

「N」
「こんな遅い時間にどうしたんだい」
「ちょっと用事があってね、その帰り。Nは、何してるの」
「ボクもそんな感じだよ」
「奇遇だね」
「そうだね」

曖昧に笑う彼に苦笑を返し、隣に座ることを促すようにベンチをつついた。風化しかけたベンチがギシギシと軋みを上げる。しかし特に気にする様子もなく、彼は私の隣に腰を下ろした。ぼんやりと宙を眺めながら、彼は独り言のように口を開く。

「……こんな遅くまで大変だね」
「そうでもないよ」
「そう」
「Nこそ、何か用事があってこんな時間になったんでしょ。疲れたんじゃない?」
「どうだろう」

分かり難い返答を返す割に、その横顔には濃い疲労が滲んでいた。よほど気の進まない用件だったのだろうか。神経質な蛍光灯の色に照らされ、まるで無機物のように映る姿を視界に収めた。深い影を落とすシャドーブルーの瞳が、眠たそうにゆっくりとまばたきを繰り返す。彼は少しの沈黙をした後に、思い立ったように口を開いた。

「会いたくないわけでは、ないのだけれど」
「え?」
「どうしても、畏縮してしまうんだ」

彼はおもむろに首を持ち上げる。視線の先には、アナログ時計がある。――あと、15分。
時計を見ているようで、実際焦点が合わない目で彼は続けた。

「ボクとしては、少しずつ関係を再生していきたいのだけどね」
「苦手な人がいるの?」
「苦手、というより恐いのかな」
「珍しい。Nを怖いっていう人がいるならともかく、Nが怖いと思う人か」
「真面目な話だよ」

どこか責めるような眼差しでこちらを見る瞳に、苦笑混じりに謝罪を返した。彼は浅くため息を吐き、私から視線を逸らす。呆れられてしまっただろうか。そんなことを思いながら、今一度時計を見る。――あと、10分。
Nは構わず言葉を続けた。

「恩は感じているんだ。でも、同じくらい赦せないと思っている。自分では割り切っているつもりだけど、実際どうなのだろうね」
「今日はその人に会ってきたの?」
「……会ってきた、か。その表現は間違ってはいないけど、正しくはないかな」
「よくわからないよ」
「――そう、だね。ごめん。何でもない。今の話は忘れてくれ」
「N?」
「何でもない。キミには関係のない話だった。ごめんよ」
「別にそんなふうには思ってないよ」

思っていない。しかし、正直意外だとは思っていた。彼が自ら自分のことを語るとは思ってなかった。同時にそれが、私と彼の「友人関係」を成り立たせる不可侵の境界であるのだと、茫洋と察する。きっとNは自身の内側を覗き込まれることも、自ら晒すことも、ましてや私のことを知ることすら厭うに違いない。微かに表情を歪めながら俯く彼の横顔に苦笑を零した。同時にホームにアナウンスが流れる。

「電車、来たよ」

向こう側から、獣の目玉のような2つの光がやって来る。一度浅く息を吐いた後に、立ち上がった。膝の上に置いていた荷物を、肩に背負おうと腕に力を入れた。しかしそれよりも先に、伸びてきた細い腕が荷物を持ち上げる。

「荷物持つよ」
「平気だよ。重くないもの」
「家まで送っていく。ボクもそちらに用があるから」

まるで許しを請う子供のように、彼は首を傾げた。年より幼く見えるその仕草に、私は苦笑しながら荷物を預けた。
彼の隣に並び、鉄の匣に向かってゆっくりと歩き出す。

夜の冷たい空気が、妙に感傷的だったことを覚えている。



(20120713)
修正20130120




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