おそらく、選んだわけでも選ばれたわけでもなかったのだろう。
誰でも良かったのだ。
私たちの不幸は、その一点にある。





「今日も雨ですね」

そっと鼓膜を震わせた音に、私は瞼を持ち上げたのだと思う。深く暗い海の底だった。濃紺に塗りつぶされた視界には光はない。時折皺を刻むように波打つ青だけが世界を覆っている。
……空などが見えるはずもない。雨も空も日も、ここにはないのだ。しかし彼は赤い目を細めてただ上を見上げていた。何が見えるのだろう。私にはわからない。ただ、海底でありながら、そこが不思議と温かかったことは覚えている。
茫洋とそこにいる彼を見つめながら、私は息を吐く。水泡がどこか高いところを目指して落ちていった。苦しくもない。
不思議な感覚だった。
海の底であり、暗い場所でありながらも彼の姿は見える。どこか生暖かい水が四肢に絡み付く。呼吸はできる。私はそこに漂っていた。いつからそこにいたのかはわからない。
ただ私がそこにいるのは当たり前で、彼はずっとそこにいた。

――これは、そんな夢だ。

夢。
何の前触れもなく、その考えが脳裏で芽吹いた。途端に茫洋としていた意識が覚醒する。これは夢である。私は覚めなければならない。眠り続けてはいけない。やらなければならないことがある。早く目覚めなければならない。
眠っていては、いけない。
徐々に輪郭を取り戻していく意識に、比例するように焦燥感が込み上げた。理由はわからない。ただ、これ以上深く沈んでしまったら後戻りできない気がした。心臓がどくどくとなっている。

戻らなければ。早く起きなければならない。帰らなければならない。

「帰る場所などないだろう」

彼は言う。――いや、そもそも彼とは誰だ。見知らぬ男性を前にし、私は思考を総動員させる。海底に佇むその男性は、こちらに背を向け立っている。時折向けられる横顔からは、赤い瞳が覗いていた。
ここは何だ。
彼は誰だ。
私は何故ここにいる。
何故ここから抜け出せない。
問いかけようと開いたはずの口からは泡だけが弾けて消えていく。いや、口だと思われる場所に口はない。あるのは半透明の白く細い肢体である。体の臓器も器官も、果たして存在しているのかわからない。
『私』は、『何』だ。
ゴボリと音を立てて、泡が弾けて消えた。

男性はこちらを振り返る。赤い隻眼がほの暗く光った。
彼はその白い両手を持ち上げる。こちらに伸ばされるそれに、私の体は一瞬だけ震えた。同時にプツンと、腕だと思っていた部分が、白い半透明の触手が引きちぎれる。痛みはなかった。彼の両手はそっと私の肢体を包んだ。すっぽりと収まってしまった自身の体に、私はこの体が「人」の原型など留めていないことを思い知った。
――海月。
そうだ。この体は海月だ。

彼は海月である私の体を、四肢を、1つずつ丁寧に引きちぎっていく。体から離された四肢は、途端に海水に溶けるように霧散した。ぶつりぶつりと質量は引き剥がされる。体が軽くなっていくのに合わせて、意識は明瞭になっていった。それはとても恐ろしいはずなのに、海月の体は動かない。時折気まぐれに、ぶるりと震えるだけだった。そのたびに泡は吐き出され、体は小さく萎んでいく。

融けていく。

その感覚は、酷く恐ろしくも何故か満ち足りたものだった。

「眠ってはいけない。目を、覚ましなさい」

ぶつりと、叱るように彼は海月の四肢を引きちぎった。




「――カーヤ」
「!」

強く耳朶を打つ声に、意識が覚醒した。容赦なく引き上げられた意識に、後頭部を殴られたような衝撃が走る。視界がくらりと揺れ、首筋を汗が伝った。どくどくと波打つ心臓に、息が詰まる。手元の馴染んだソファーの感触や、見慣れたリビングの壁の色に、少しずつ五感と意識が取り戻されていく。そこでようやく、自分が先ほどまで眠っていたことを知覚した。
こちらを覗き込んでくる瞳が仄暗く揺れた。

「カーヤ」
「え……」
「ずいぶんと魘されていた。顔色も良くないし、心配だったらつい起こしてしまったよ」
「あ……ああ、うん。ありがとう」

傍らにあるシャドーブルーの瞳に苦笑混じりに言葉を紡ぐ。緩慢な動作で体を起こし、改めて辺りを見回した。ソファーで眠ってしまっていたらしい。テーブルには書きかけの履歴書や、ボールペン、証明写真、求人情報誌が散らばっている。
……履歴書を書いている途中で、眠ってしまったのだ。
前後の記憶を少しずつ拾い上げながら、Nが起こしてくれたことに僅かな安堵を覚えた。嫌に生々しく思考にへばりついた夢の光景に、ぞくりと悪寒が走る。
彼は再度私の顔を覗き込んでは眉をひそめた。

「カーヤ」
「ごめん、大丈夫だから」

散らばっているものを隠すように雑に片付け、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。未だに心臓は騒がしく鼓動を打っている。汗がベタベタと気持ち悪いのに、指先が嫌に冷たい。傍らにある時計は午後2時を指している。しかし外は薄暗い。まるでまだ夢の中にいるようだった。

「最近あまり体調が良くないみたいだね」
「そうかな、そんなことないよ」
「一度病院に行った方が良いんじゃないかい? 疲れてるだけとか、何ともなくても。それはそれで休養をきちんととった方が良いってことになるだろ。それに、どんなに眠っても疲れがとれないって、言ってただろ?」

嫌に抑揚のあるその言葉に、ついぞ視線をそらした。生々しい言葉が鼓膜に突き刺さり、生きた感情が心臓に突き刺さる。糾弾にも似た色を滲ませた彼の言葉が、何故か不愉快に思えてしまってしかたなかったのだ。……彼にそんなつもりがないことくらいわかっている。しかし夢見の悪さに影響されたのか、どうにも卑屈な思考へとベクトルが向いてしまう。被害妄想にも、ほどがあるというのに。

「カーヤ」
「大丈夫だから。平気。私が、だらしないだけだから。心配とかしないで。平気だから」

まるで自分に言い聞かせるかのように繰り返した。彼の視線は依然として私に向けられている。それを弾くように、片付けたばかりの履歴書とボールペンを取り出しては座り直した。握り締めたボールペンが進まないことを承知で、私は書きかけの履歴書と向き合う。Nを必死に視界から追い出そうと機能する思考回路に、ひどく惨めな気分になった。
それすら誤魔化そうと私は言葉を模索する。

「Nは、心配し過ぎだよ。そんなに神経質になってたら疲れるでしょう」
「神経質、か。そうだね。ボクはあの人とキミを勝手に重ねて、焦っているだけなのかもしれない」
「……あの人?」
「いや、なんでもないよ。ただ、キミがこのまま眠り続けて、目覚めない気がしただけさ」

眠ってはいけないよ、と、彼は囁くように零した。しかしその表情は先ほどと打って変わって、ゾッとするほど感情が抜け落ちたものだった。

「今日はもう帰るよ。だからゆっくり休んで」
「……そう。気をつけて帰ってね」

Nがドアの向こう側へと消えていく。その気配を感じながら、テーブルに伏せた。
外も部屋の中も薄暗い。もしかしたら、雨が降るのかもしれない。夢の中の男性の、「今日も雨ですね」という言葉がリフレインする。……まさか、関係などないだろう。
重たい体をテーブルから引き剥がしながら、近くの引き出しにしまわれた手紙の束を眺める。いつまでも取っておくから、妙な夢を見るのだ。早々に燃やしてしまえば良かった。そう囁く思考に反し、再び引き出しの奥へと手紙の束は戻された。
苛立ちにも似た胸中の痼に、誰が聞いてるわけでもないのにわざとらしい大きな溜め息を吐く。家に篭っているのも、あまり精神衛生上良くない。Nが完全にこの辺りを去った頃を見計らい、身支度を整えて家を出る準備をした。
仄暗い空に、傘を手にとっては玄関を抜けた。

間もなくして、鉛色の空は泣き出した。
今日も、雨だ。



20120806
修正20130205




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -