彼女の髪は母さんと同じ色でした。僕の髪は鏡を何度見ても母さんとは違うのです。僕の髪は、父さんに似ているのでしょうか。彼女の母さんはちゃんといるのに、何故僕の母さんと髪の色が似ているのでしょう。母さんの子供は僕だけなのに、何故僕の髪より彼女の髪の方が似ているでしょう。

何だかとても、彼女が羨ましくなってしまった。




***


白い影は宙を踊るように旋回しながら廊下を走っていく。振袖を翻し、宙を舞い、クルリと体を回転させる。遊んでいるような姿に、黒い影が誘われるように追いかけた。その2つの影を追いかけ、私はただアジトの中を迷走する。一向に縮まらない距離と限界に近づきつつある体力に、ふと疑問が脳裏をよぎった。果たしてこのアジトはこんなに広かっただろうか。灰白色の壁に四面を囲まれた空間。響く足音。この建物の構造なら、自分が一番知っているはずだ。だというのにまるで知らない建物の中にいるような奇妙な違和感が発露した。角を曲がっては直進し、再び曲がっては直進する。繰り返し続けるそれに大分息が上がってきた。しかし足を緩めてしまっては次の角で見失う。全身から酸素を奪われていくような感覚に、喉が乾燥した。

そして何度目の曲がり角なのか。ユキメノコが曲がったと同時に、突然ヘルガーは曲がらずに足を止めた。それに走る足を緩め、呼吸を整えるべく歩き出す。少しずつ縮まっていく距離に、紅蓮の瞳がこちらを見た。そして尻尾を軽く振っては、角の向こう側を気にするように視線を変える。その先に何があるというのだろう。走っていたためドクドクと脈打っていた心臓は、今度は腹から湧き上がる感情に早鐘を打ち始めた。肺腑に流れ込む空気は冷えているのに体はまるで熱を逃がさない。脳裏には女性の面差しがぼんやりと浮かび上がった。ただそれは霧の向こう側にあるかのように、白く霞んでいる。必死にその輪郭を取り戻すべく、午前中に見た女の顔を重ね合わせた。顔は一致する。しかし表情が一致しない。シンオウからこっそりと持ち帰った白いマフラーは、今は自分のデスクの引き出しにある。それと彼女の顔を合わせて、やっと頭の中には一人の女性の像が出来上がった。そうでもしなければ、思い出せない。日に日に風化していく記憶に虚しさが込み上げた。

ゆっくりとヘルガーのそばまで行く。彼はゆっくり角を曲がった。
心臓は少しずつ脈を打つ速さを増し、何かが込み上げる。ヘルガーは角を曲がると軽い足取りで其処に立っている人間≠フもとへと走り寄っていった。
女とユキメノコがいる。女は組織の服を着ている。ランスの部下だという女だ。
灰白色の壁に囲まれた方型の空間。無色の匣。冷えた透明な空気。音が一瞬だけ消失した気がした。
息を飲み、ただ気配を押し殺す。ヘルガーが自分以外の人間に懐くことはない。あったとしても、それはデルビルの頃から知っている顔だけだ。ならあの女は。

誰かの部屋に入ろうとしていた彼女は、突然足にすり寄ってきたヘルガーに一瞬だけ目を見開く。その顔が描く表情は冷たく感情が抜け落ちたものだった。あの時見た能面のような顔だ。しかしその顔は間をおいて別人のように変わる。目元を下げ、頬を緩ませ、唇は柔らかい弧を描いた。少しだけ下がった眉が、何だか頼りない。情けない、笑みだった。

それに頭の中で彼女の記憶が一気に再構築される。バラバラになって忘却に埋もれてしまいそうな鎖が繋がれた。そして確固たる輪郭を持ってそれは追想される。髪の色、瞳の色、輪郭、声、姿。明瞭にそれは私の前に姿を現した。今、目の前に確かな生きる人間として。

彼女に気付かれないよう一歩後ろに下がり、その様子を見詰める。ヘルガーの頭を優しく撫でる手のひらに、紅蓮の瞳は穏やかに細められた。鼓動は今だ早鐘を打っている。無音にも思えた空間で、彼女の声が響いた。


「…お散歩中ですか?」

クスリと笑みを含んだ声。ひどく、懐かしい。

「お一人ですか?」

「ご主人はどうしました?」

「もしかしてお休み中?」

明確な答えなど、要らないのだろう。彼女が一方的に紡ぐ問いに、胸中がざわついた。ただ目を伏せその声を聞く。何故ここにいるのか。何故あの時姿を消したのか。何者なのか。シンオウで何をしたのか。何故だかどうでもよくなってしまった。きっと本心は問いただしてしまいたいのに、あの情けない笑みを見た瞬間、奇妙な脱力感がのしかかった。もしかしたら、ただ彼女の消息を確かめたかっただけなのだろうか。ふと過ぎる今まで気付けなかった本心の一部に頭が納得する。ならこれでいいのかもしれない。そう思った。
しかしそれも、彼女の一言で逆転する。

「…アポロ君は、まだ私を恨んでますか…」



『ごめんなさい』



ごめんなさい。
ごめんなさい。
許して。
怒らないで。
ごめんね。
ごめんね。
違うの。
そんなつもりじゃなかったの。
お願い。
聞いて。
嫌いにならないで。
何でもするから。
ごめんね。
だから…


『五月蝿い』


お前なんか消えてしまえばいいんだ




「……!」

一気に腹から喉元まで熱が込み上げる。とっさに口を手で覆った。走馬灯のように再生される記憶。フィルムの一コマ一コマがバラバラに断続的に眼球の裏に表れる。

思い出した。

違う。無理矢理引きずり出されたのだ。忘れていたのではない。閉じ込めていたのだ。忌々しいだけだった。無価値だった。無関心だった。不必要だった。だから奥にしまったのだ。そうだ。ただ、彼女にとってはそれが大きな意味を持っていただけで。

無意識に歩を進める。迷わず角の向こう側の彼女を目指した。灰白色の壁に足音が反響する。白と黒だけが構成する空間に、足音が嫌に鼓膜に突いた。彼女はこちらを見て瞠目する。恐怖に凍り付いたような顔だった。その唇が確かに私の名前を呼ぶ。ただ音にはならない。私はやっと確信した。




「…貴女が、僕の剥奪者だったですね」





彼女は背を向け走り出した。その顔は泣いているようだった。いや、実際泣いていたかもしれない。
私はきっと追いかけなければならないのだろう。このまま放っておくことも考えてしまった。私は、彼女が大嫌いだったからだ。
しかし体は無意識に走り出していた。ただ彼女の名前だけは口にできなかった。当たり前だ。私は彼女の名前など知らないのだから。

彼女は、十六年前私に名前を教えてはくれなかったのだから。









20100412




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