彼が私の消失を望んだからこそ忘却が成立したのです

静かに笑いながら女は言った。雪が深い白銀の世界は色がなく、彼女もまた色がなかった。吹雪に支配された聴覚に、色のない透明な声が届く。音ではなく文字として脳に流れ込む言葉に、ただ呆然と白を眺めていた。身を翻し、女は笑う。

彼は私が憎いのです

彼は私が嫉ましいのです

風は悲鳴のように吹雪いている。女の聲を飲み込み、白く霞ませていた。彼女は笑う。

だから彼は私を、忘れてしまった

真っ白な世界で彼女は顔を覆った。雪がその姿を徐々に塗り潰していく。雪風に揺れるその体は、少しずつ遠のいていった。そこで私はやっと、理解する。

「――嗚呼、貴女が…___だったのですね…」

私は私が発した言葉を、知らない。






目の前にいる女は何なのか。シンオウで会った彼女は誰なのか。私の記憶に根を張る存在は何なのか。疑問が網膜を焼き視界がブレる。眩暈に襲われとっさにデスクに手をついた。ランスが抑揚に欠けた声でどうしたのかと尋ねる。それに首を振り何でもないと返した。女は顔色一つ変えずに、そこに佇んでいる。組織の漆黒の衣服を纏い、感情という表情の色が失せた人形の顔。まるで能面だ。シンオウで会った彼女の情けない笑顔と、女の無表情な顔が重なる。吐き気がした。

「…顔色が悪いですね」
「疲れているだけです。何でもありません。」
「……」
「早く仕事に戻りなさい。」
「わかりました」

青年はゆっくりと踵を返し、部屋を出て行く。隣にいる女もまた、一度頭を下げてから彼の後を追っていった。パタンというドアが閉められる音と共に空間は閉塞する。一瞬だけ無音に満ちた空間に、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
一体何なのだろうか。
記憶の中にいる少女。再会した彼女。存在しなかった彼女。彼女と同じ顔の女。同一人物なのか。他人なのか。自分が見ているのは何なのか。
(これでは疲れて≠「るというより憑かれて≠「る)
自嘲する口元を覆った。疑問を抱くなら直接あの女に聞けばいい。しかしどうしても聞く気にはならなかった。聞けば何かが終わってしまう。

私は懼れている。
私の中で何かが終焉を迎えてしまうことを。



***



「よう、しけた面した幹部さん」
「……」

声と共にドアは遠慮もなにもなく開け放たれた。二藍と黒が視界に映る。やや猫背のそれはだらしなく近くのパイプ椅子へと腰を下ろした。虫の居所が悪いせいで一々動作に不快感が過ぎる。現れた中年の男へと視線を向けては睨み付けた。しかし彼は飄々とした顔でそれを受け流す。効果がないことは分かっていたが、思わず深いため息が零れ視線を外した。

「何か用ですか、ラムダ」
「何ってお前…チョウジの実験の件だよ。」
「………」
「まあ、そんなことは後でもいいか。それにしても本当に窶れた顔してんなあ?」

ニヤリと挑発的な笑みが彼の顔に張り付く。気に入らない。ピリッと走る小さな苛立ちに、睨み付けては視線をそらした。
ラムダという男はいつもそうだ。飄々とした顔は仮面に過ぎない。腹の中では何を考えているのかも分からない計算高い男だ。仕事に対する表面上の態度はやる気がなく、幹部でありながらとても勤勉とはいえない。それでも与えられた仕事は確実にこなすのだから、掴み所がない人間でもある。クラゲのような男だ。
だがその辺を言うのなら、アテナも同じだろう。アテナはラムダほど飄々としているわけではないが、些か遊びすぎる面がある。プライドもそれなり高いらしく、仕事に対する態度ならラムダよりマシだ。
それにどんな態度であろうと仕事は二人とも確実に成功させる。詰まるところ組織とかつての統率者に対する憧憬は等しく共通しているのだ。

「憑かれてる≠だってな」
「!」

不意に男が口にした一言に、眉が跳ね上がる。苛立ちを露骨に宿した瞳に、彼はおどけたように肩をすくめた。口を一の字に結び、目を細める。

「そう怖い顔すんなって。余計疲れるぞ?」
「からかいにきたのなら出て行きなさい。」
「おー怖い怖い。」
「ラムダ」
「まあ、聞けって。お前も興味あるはずだぜ?」
「…一体何の話です」
「ユキジョロウ…とか?」
「……!」
「ああ、雪女の方が呼び方は馴染みあるか」
「…何が言いたいのです」

一体どこで何の情報を手に入れたというのだろう。明らかに確信を持って口にした彼に必然的に表情が歪む。ここ最近であまりに多くの不可思議なことがあったお陰か、今さら何を言われてもさほど驚きというものはなかった。相手もそれは承知なのか、表情に貼り付けた笑みを深める。こちらに対して、精神的に絶対に優勢な何かを持っているとでも言うのか。その姿を微動だにせず睨み付けた。

「あいつ、お前に何か仕掛けてるぜ」
「……?」
「ランスだよランス。」
「!」

その言葉に、午前中ここを訪れた青年の姿が脳裏に蘇る。一気に腹の底から何かがせり上がり、喉に焼けるような熱が走った。…その隣にいた部下の女か。重なる顔と不自然にブレる面影。頭の奥深くから名前を呼ぶ声が聞こえたような錯覚に、眩暈に襲われた。

「まあ、オレも詳しいことは知らねえけどな。あいつが組織裏切ることは考えられねえし。お前に私怨があるとも思えない…」
「……」
「そういや最近面白い玩具を見つけたとか言ってたな。おまけに最近下っ端連中の間じゃ部下を偏愛してるって噂が立ってる…」

火のないところに煙は立たない。そう付け足してはラムダは笑った。いつの間に取り出したのか、その口には煙草がくわえられている。細い煙と共に独特な匂いが鼻孔を突いた。眉をひそめて窓を開ける。冷えた空気が流れ込み、ザワザワと胸中に何かが発露した。

「とは言っても、あいつは今日から遠くにお仕事。確認も何もできねえなあ。」
「組織の存亡に関わりがないのなら…」
「興味ねえってか?」
「ええ」
「なら一つだけ忠告しておくぜ」

言いながら彼は私に背を向けた。細められたその目が、不穏な色を宿す。それをただ凝視し、次の言葉を待った。

「今日で終わりだ」
「……?」
「終焉を迎える」
「何の話です」
「終わっちまうんだよ」
「だから、何の話を…」
「お前の中の何か≠セ」
「!」


「綺麗さっぱり、消えちまうそうだよ」


何が。何を。何故。一体、何が目的だ。
ただドアの向こう側へと消えていく背中を呆然と眺めた。その言葉が何を示唆するのか。皆目見当がつかなかった。心臓を鷲掴みにされたような感覚に、息が詰まる。今にも混乱に呑み込まれてしまうそうだった。平生の私≠ヘどこだろう。必死に理性をかき集める。そして無意識にシンオウにある家の鍵がしまわれたポケットへと手が伸びた。その時ボールに指先が触れたせいか、不意にヘルガーが出てくる。

「!」

白い光と共に漆黒のしなやかな肢体が現れる。紅蓮の瞳が細められ、私を見た。

「…すみません。何でもありませんよ。」

だから戻りなさい。ボールに戻そうとそれを手に取れば、彼は小さく鳴き声を上げた。そして突然、私のスーツの袖をくわえた。驚き目を見開くが、そんな間も与えず彼は袖を噛んだまま引っ張る。どこかに連れて行きたそうな様子に眉をひそめた。デルビルの時分はこうして遊んで欲しいと訴えていたことはあるが、今さらそんなことがある訳がない。何よりもここは組織のアジトなのだ。
訳が分からずその様子を見ていれば、彼は身を翻し、勝手にドアの隙間から廊下へと出て行ってしまった。そしてドアの前で、廊下の一点を見詰めて制止している。眉をひそめてそちらへと向かった。

「!」

廊下を出て、右手の方だった。ヘルガーはその方向を見ていた。そちらにあるものを凝視して、動きを止めていた。

そこにいたのは、ユキメノコだ。

フワフワと宙に浮かび、振袖のような腕を揺らしている。水晶のような薄青の瞳がキロリと動き、こちらを見据えた。何故そんなところにいるのか。誰のポケモンなのか。疑問が脳裏に浮かび上がる。しかしそれは私を確認するなり身を翻して廊下を進み出した。ヘルガーはそれを追いかける。奇妙な光景だと思った。冷たい壁に囲まれた箱の空間を進んでいく白と黒。相反する属性の二匹。しかしそれはまるで長年互いを見てきた友人のような素振りを見せていた。

少しの間二つの影を呆然と眺め、我に返り後を追った。








20100407




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