母の看病に疲れていた。疲労だけが日に日に降り積もっては嵩を増していく。金は全て母の治療費へと回り、食事もまともにとれなかった。惨めなまでに働き続けている自分に、疑問を抱かずにはいられなかった。何故、どうして。通り過ぎていく親子と笑顔。私がその位の年の時、母と連れ立って歩いたことなどない。全てが嫉ましかった。働いている自分も。病気の母も。何も知らない他人も。惨めな生活も。全てが嫌だった。終わらせてしまいたかった。
自棄を、起こしていた。そんなときに、あの方が。

『狭い箱の中では、本来の形へと育たない』
『ただ締め付けられ束縛され、歪に歪んでいくだけだ』
『付いて来るといい』
『もっと広い世界をお前に見せてやろう』

本来の形になるために

それが私≠ニいう人間の、原点。



傍らで小さく鳴いたヘルガーの頭を撫でる。喉を鳴らす彼へと視線を向ければ、赤い瞳が細められた。組織に入るよりずっと昔から傍らにいたパートナーは、幼いころ町の片隅に捨てられていたポケモンだった。同情から拾い、連れ帰り、暇を見つけては戦わせた。当時の自分にとって唯一の気晴らしでもあった。また彼がいたから彼の人は私に手を差し伸べてくれたのだ。唯一無二の理解者でもある。漆黒のしなやかな背を撫で、ゆっくりとドアへ向かって歩き出した。もう戻ることもないだろう。思いながらも、鍵をポケットの中で握り締めて離せない。ヘルガーをボールの中に戻してから、家の外に出た。

無駄なことだと結論付け考えるのを止めた。親戚の人間の言葉が脳裏で再生され、反響する。頭の中に残る彼女の輪郭をもう一度なぞり、諦めるように目を閉じた。きっと疲れているのだ。それに他人と自分の間に齟齬が生まれるのは大して珍しいことではない。もとよりずっと一人で生きてきたようなものだ。他人と食い違ったって、何を思うわけでもない。疲れて夢を見ていたのだ。それだけだ。それだけだと、思いたいのだ。

「……」

右手に握られた白いマフラーに視線を落とす。彼女が確実に自分の前にいたという、物理的な証があった。考えれば考えるほどわからなくなる。そのたびにランスの言葉が思考を掠めた。余計、答えが遠退いた。
だがもう、ここに訪れることはないのだ。この数日間のことはぷっつりと途切れて終わる。どうせ、あちらに戻って一月もすれば忘れてしまうだろう。
無意識に足早になり、駅へと向かった。

こちらに来た時とは打って変わって、駅は人で群がっていた。無理もない。こちらにきた時は真夜中の終電だ。あの時間に他人と乗り合わせること自体珍しい。ザワザワとノイズのように鼓膜につく群集の声を聞きながら、改札口を抜けて電車に乗った。ホームが混んでいた割に、車内は人はいるが空いている。見知らぬ他人が等間隔を置きながら座っている細長い座席を眺め、入り口付近の座席に座ることにした。アナウンスが流れて車体が揺れ出す。やはりその歪な揺れは、不快だった。

電車でミオに着いたなら、次はそこから船に乗ってジョウトのアサギまで向かう。あちらにはほぼ丸一日を費やして移動しなければならない。船の中では多少の仮眠を取り、徐々に落ちていく陽を眺めた。波の音も潮の香りも風も、船体が揺れるたびに不快としかとらえられない。吐き気に襲われ胃に物を入れる気にもなれず、ただ疲労感だけが募っていった。そうして着く頃にはほぼ夜中になっていた。下船さえしてしまえば後は楽だ。アジトはそう遠くない。
月明かりに青く浮き上がる街に気を向けることもなく、アサギを出た。
それから携帯が鳴り出したのはすぐのことだ。ランスの次はアテナか。思い電話に出れば相変わらずの口調で彼女は言葉を紡ぎ出した。

『あ、アポロ?あんたランスに聞いたわよ。一体シンオウまで何しに行ってたのよ』
「…私情ですよ。それに今ジョウトに着きました。」
『あら、そう。なら部下に迎えに行かせるわ。今どこ?』
「アサギをちょうど出たところです」
『そう、ならそこにいなさい。』

そう最後に言い放ってぷつりと電話は切れた。時刻はもう真夜中の1時だ。こんな時間に叩き起こされて使い走りにされるとは、彼女の部下もつくづくついていないだろう。思いながらも携帯をポケットにしまい込み、ぼんやりと空を見上げる。シンオウでは凍えるような夜も、ジョウトでは涼しいくらいだ。時折疲労から来る眠気に瞼が下りてくる。それに耐えただ立ち尽くしていれば、遠くから二つの黄色い光が見えた。予想に反して早い迎えにかすかに驚きながらも、近くにいた部下に連絡を取ったのだとすぐに結論付け深くは考えなかった。

「お迎えにあがりました」

抑揚に欠けた冷たい声が鼓膜に流れ込む。言ってドアを開けたのは、女性のものらしい声だった。どこかで聞いたことがあるような錯覚を抱き、全身に鳥肌が立つ。
暗闇のためよく顔は見えないが、声の高さからして男は有り得ない。ただの思い込みとはいえ男の団員が来ると思っていたぶん、不意をつかれたのは言うまでもなかった。しかし表情を変えずに無言で後部座席に乗り込む。彼女もまた何も言わずに発進させた。座った途端に一気に全身にのしかかってくる疲労感に、無意識のうちに目を閉じていた。


『アポロくんはどうしていつも疲れた顔してるの?』

言ったのは誰だったろう。
雪に埋もれかかった面差しを掘り起こし、思案する。外気に晒された右手とは違い、左手から伝わる温度はじんわりと凍えた指先を解かしていた。白いマフラーを巻いた小さな彼女は、小さな私に問いかけるのだ。

『アポロくんはなにが楽しい?』

無邪気に笑う丸い瞳。ズシリと心臓に何かがのしかかる。

『どうしてわらわないの?』

邪気がない。悪気がない。意地の悪い言葉でもない。純粋な疑問から来る些細な問い。しかし問われるたびに泥ついた感情が思考に流れ込んだ。
何故、なんて。分かるでしょう。私は貴女のように恵まれてなかったのですから。
そうだ。思い出した。私は彼女が嫉ましかった。記憶から消し去りたいほど、憎らしかった。問われるたびにあちら側の幸せを見せつけられているようで。自分が惨めだと、思わされているようで。そうだ。だからだ。

だから私は彼女を忘れ去ったのだ。



「アポロ様、着きました」
「!」

その声に反射的に目を開けた。同時にブレーキがかかり、慣性のままに体が前のめりになる。とっさに前の座席を支えに体勢を保った。車内の窓から見える景色に、アジトに着いたということを確認する。
少しだけ目を瞑っているつもりが、夢まで見てたようだ。重い思考を振り払い、車から下りた。せめて下っ端相手でも、一言くらい礼は言うべきだろう。思いながら振り返る。しかし振り返った先には、車も女性も既に消えていた。あまりに唐突のことに瞠目する。
もう行ってしまったのだろうか。しかしエンジンの音も何も聞こえなかった。忽然と消えてしまった気配に、ただ呆然とその場に立ちつくす。
あまりに不可解な目の前の状況に、否応なしにシンオウでの彼女のことが思い出された。じわじわと思考を侵蝕する熱に、深く息を吐き出す。
きつく手のひらを握り締めては目を伏せた。

「ああ、帰ってきたんですね」
「!」
「アテナなら私に留守を押し付けて出て行きましたよ」
「ランス、」
「…何か」
「私の迎えによこした女は…」
「?何を言ってるんですか。アテナは下っ端の男を向かわせたんですよ?」
「……!」

どういうことだ。彼の一言に思考が止まる。愕然と千歳緑の瞳を見つめ返した。唇が震える。何か紡ごうとした声は、しかし動揺を抑えるために飲み込まれる。訝しげに眉をひそめる彼に首を振り、ゆっくりと足元に視線を落とした。同時に携帯の呼び出し音が鳴り響く。ランスのものだ。少し間をおいてから、彼は電話に出た。

「ああ…私です。アテナですか。……、?…何を言っているんです。アポロさんならもう帰って…、…!今そちらに着いたところ…?」
「!?」

電話口から僅かに聞こえる声と、彼の言葉。それは状況を理解するのに十分すぎた。驚愕のあまり色をなくした虹彩に囲まれた彼の瞳が私に向けられる。私もまた彼に同じような瞳で答えた。いや、これは彼の問いでもあったのだ。

「…誰が、私をここまで連れてきたのです…」

暗闇に塗り潰されて見えなかった顔。女性の声。夢の中の幼少時の私と彼女。何かが不意に込み上げて、息を飲んだ。得体の知れない事象に、私はただその場に立ち尽くすしかできなかった。






20100402




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