不在着信が2件。見慣れた番号は、ランスのものだった。彼は幹部というプライドからか、立場からか、仕事に対しては人一倍勤勉な人間だった。シンオウに向かう際に仕事を押し付けた相手もランスである。平生の彼は冷静且つ合理的な思考の持ち主で、その判断からくる行動は時折血も涙もないようなものだった。しかし一部の人間なら知っている。彼がいかに不安定な人間かを。激昂に駆り立てられれば平生からは考えられないほど暴れ、ひたすらモノを壊す。破砕音を彼は好むのだ。彼の精神は常に破壊か沈黙かの天秤に吊されていた。そんな彼に対する組織内での眼差しは二極化している。敬愛か、畏怖か。大部分が後者であることは言うまでもない。
番号を眺めながら、脳裏に不機嫌そうに眉間にしわを寄せる青年の姿が容易に想像できた。小さく吐息をつき、リダイヤルのボタンを押す。降り出した雪のせいなのか、暖炉がついてる部屋にも関わらず指がかじかんでいた。携帯を持つ手のひらに力が入らない。

数回コールが響いた後に、普段より幾分トーンが下がった声が聞こえた。

『一体いつまでアジトを空けるつもりですか?』

繋がったと思うなり刺すような声が言葉を紡ぐ。抑揚に欠けたそれは、しかし苛立ちを孕んでいるように思えた。予想していた通りだと言ってしまえばそうだ。少しだけ間を空けた後に、明後日には戻ると返した。

『あまり無責任な行動は控えてください。サカキ様を失い、迷走するだけの組織を統率するのは今や貴方だけなのですよ』

咎めるような言葉は、どこか機械仕掛けじみていた。一度携帯を握りなおした後に短く答える。聞こえた吐息が受話器越しにかすかな苛立ちを伝えてきた。それに思わず内心苦笑する。これ以上待たせてしまっては、彼が乱心を起こしかねないか。やはり苛立っているのか、受話器の向こう側の彼も黙り込んでしまった。僅かに訪れた沈黙が痛いほどの静寂を運び込む。それに無意識に先ほどまで向かいのソファーに座っていた彼女の姿が頭に浮かび上がった。
一瞬だけ意識がぐらつき、携帯を握る手のひらが震える。遠のく理性を必死に引き戻し、電話を切ろうとした彼の言葉を制止した。

「ランス」
『…何ですか』
「人が人を忘れるのは、何故だと思いますか」
『!』

突拍子も脈絡もない問だった。受話器の向こう側にいる彼の怪訝そうな表情が頭に浮かぶ。聴覚は携帯に集中しながらも、視線は真っ白に雪化粧をした外へと向けられていた。茫洋と舞い降る雪を見ながら、再度同じ質問を同じ抑揚で尋ねる。

「人が人を忘れるのは、何故だと思いますか」

何故、私の記憶は彼女の名前を拾い上げないのだろう。降り積もり、分厚くなっていく雪の下敷きになるように。日ごと生産される過去に記憶は埋もれていく。埋もれた記憶は忘却の淵へと追いやられる。早く引きずり出さなければ、凍死してしまう。冷たく固い溶けることのない忘却に、塗り固められてしまう。そうなる前に引きずり出さなければならないのだ。記憶が死んでしまう前に。私の中の彼女の記憶は、まだ死んでいない。早く見つけださなければ。早く思い出さなければ。
彼の答えを待ち、沈黙をひらすら耐える。そしてどのくらいの間をおいたのか、彼は口を開いた。

『詰まらない人間だったんでしょう』
「!」
『思い出せないほど、無関心だったというだけですよ』
「……」

ひどく明瞭で淡々とした答えだった。だがそれを残酷だとは思わない。その答えが等しく誰にでも当てはまることを知っているからだ。
道端ですれ違った名前も知らない他人など覚えているはずがない。言ってしまえばそういうことなのだ。私にとって、彼女がそういう人間だった。ということなのだろうか。しかしそう思う反面、胸中には猛烈な嫌悪感が肥大する。違う。そうではない。受話器を握る手のひらの力が増した。


『なにを考えているのかはわかりませんが…さっさと帰るべきところへ戻ってきてください』
「…わかっていますよ」
『ただで私は部下を任務で遠出させているんです。人手が足りない。貴方の代わりに仕事を行うには限界があります。』
「言われなくとも明後日にはそちらに着いてます。小言はその時に聞きますよ。」
『…はあ…』
「……」

深く息を吐き出す彼に、目を伏せた。窓の向こう側では音もなく雪が降っている。区切りが良いところで電話を切るべく口を開く。しかし声を発するより先に、ランスの方が言葉を紡いだ。

『ああ…そうだ』
「!」

雪女には気をつけてくださいね

電話はブツンと切れた。機械音が流れるのを聞きながら、思わず目を見開く。一体どういう意味なのだろう。合理主義の彼が奇怪なものを信じていないのは知っている。なら、一体何の比喩のつもりなのか。嫌な後味を残し、受話器を置いた。

それから私が異変に気付いたのは、翌日のことだ。その日も雪が降っていた。視界を無色に染め上げていくそれはひたすら冷たく世界を包み込む。
ソファーの背もたれ部分には、彼女が置き去りにしていった白いマフラーがかけられていた。それを眺めながら冷めてしまったコーヒーを口に運ぶ。過ぎていく時間が、作り物のような空虚なものに感じられた。今だ胸中に痼りのように残る違和感は、思考に重い靄をかけていた。
しかしぼんやりとした意識も、不意に鳴り響くインターホンに現実に引き戻される。ワンテンポ遅れてから玄関に向かえば、病院で出会った親戚の夫婦が立っていた。明日にはシンオウを出る旨を話していた。挨拶にでも来たのだろう。家の中に通し、コーヒーを出す。気を使わなくていいと笑う彼らに苦笑を返し、ソファーに腰を下ろした。
そうして始まる会話は、やはり世間話を踏まえた挨拶のようなものだった。今はどこにいるのか。仕事は何をしているのか。友達はいるのか。苦労はしていないか。全てに答えることはできず、ただ曖昧な返事しかできなかった。それでも特に深く追及するようなことはなかったので、ひたすら彼らが口にする質問を受け流す。時折風が窓を叩く音を聞きながら、ふと、ソファーに置いたままだったマフラーを思い出した。それに相手の話の区切りが良いところで口を開く。もちろん彼女のことを聞くために。しかし返ってきた言葉は、あまりに現実味に欠けていた。

「そういえば、私が病院へ訪れた時一緒にいた女性なのですが…」
「…?アポロ君、あの時病院には一人で来たでしょう?」
「…は…、?」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。ただ目を見開き、目の前に座る人間を見る。それに相手も驚いたように、キョトンとした表情をした。

「一人、だったわよね?」
「…そう、なんですか」
「あ、もしかして病室の外に?だったら私たちは会ってないわ」
「!」

会ってない=H
それはおかしい。あの時彼女は確かに私の隣にいた。この夫婦と対面した。会っているのだ。どういうことだ。
一気に現実から色が抜け落ちていく。意識がぐらつき、遠のいていくようだった。まるで銀幕に映る映像を見せられてるような無機質な感覚に、得体の知れない感情が込み上げる。必死に理性をかき集めた。握り締めた手のひらに爪が食い込む。

「大丈夫?顔色が悪いわよ?」
「ええ…大丈夫です」
「きっと疲れているのよ。ちゃんと休むのよ。」
「……はい」
「それじゃあ私たちは帰るわね。これ以上は疲れてしまうだろうから。」

見送りは大丈夫よ。そう言って彼らは去っていった。何だかテレビに出てくる役者の科白を聞いているようだった。ひどい虚無感に襲われて、俯き両手で顔を覆う。傍らには確かに彼女が残していったマフラーがある。しかし先ほどの会話が何度も再生されて、不気味でならなかった。

「…いなかった=c?」

彼女は、ここに。分からない。だがいたのだ。数日前に電車で会った。話をした。姿を見た。昨日だって話をしたばかりだ。記憶の中の彼女の輪郭をなぞる。しかしそうするたびにまるで白に塗り潰されていくように、彼女の顔が霞んだ。
ダメだ。いけない。忘れてしまう。分からなくなってしまう。ダメだ。
キツく閉じた瞼の裏で、霧がかかっていく映像にひたすらそう念じていた。

窓が雪風にカタカタと音をたてる。ふとしたように顔を上げ、窓の向こう側を見た。
風に揺られて何かがはためく。目を凝らしてみれば、白い着物を思わせる影が翻った。ユキメノコだろうか。

何故だかランスの言葉が去来した。





20100329




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