母の葬儀は、あまりにあっさりと終わってしまった。
私が帰省するより早く、親戚の人間たちが葬儀の手続きを済ませていたらしい。事実私は参列者たちに頭を下げる程度のことしかしていなかった。彼らはきっと私が帰ってくるなど思ってはいなかったのだろう。突然家を飛び出し、8年も行方を眩ましていたのだ。無理はない。何より私自身も、何故帰って来る気になったのかすらわからないのだから。
普段身に着けていた白いスーツとは対照的な、漆黒の喪服を着て立ち尽くす。視界に黒が掠った。自身が纏う色に違和感を覚えるのは、実感がないからだろうか。足元に佇む墓石は母の名を刻み込み、ただ沈黙していた。それを眺めて思考を巡らす。彼女が言った言葉が頭の中で再生された。母は本当に私を思っていたのだろうか。しかしその答えはどちらにせよ、あまり良くない印象を私に受け付けるに違いない。あの人が私を思っていたというのなら、私はただの親不孝者で。しかし逆だというのなら、私はただの出来の悪い息子だ。どちらにしても、去来するのは後悔にも似た罪悪感だけだった。
胸の底でくすぶる感情を冷ますように、冷たい風が吹き抜けた。空は鉛色だ。重く頭上に蓋をするそれは、あと一時間もしない内に雪でも降らせるだろう。一度自宅に戻ろうと、ゆっくりと踵を返した。


身を切るような冷たい風に晒されながら帰路を辿っていた。8年振りに見上げた家は、ただモノクロの景色を背景に佇む。親戚辺りが定期的に掃除でもしていたのだろうか。母が入院して私がジョウトへと移って以来、使われていない無人の屋敷は、どういうわけか手入れをしていたかのように庭が綺麗だった。こっそりと大切に持っていた自宅の鍵をポケットから取り出す。金属特有の刺すような冷たさが手のひらに伝わった。そして僅かな間躊躇うようにそれを見つめ、一度だけ握り締める。ゆっくりとした動作で鍵穴に差し込み、軽く手首を捻り鍵を開けた。ガチャリと重く冷たい音が灰色の空間に響く。ドアノブに手をかければ氷のような冷たさが胸中を満たし、何故かひどく寂寥感が込み上げた。

「アポロ君、」
「!」

唐突に背中に小さな聲が触れる。突然のことに驚き手のひらに力が入った。しかし平静を装い、背後を振り返る。そこには喪服に身を包んだ彼女がいた。マフラーをして黒いコートを着込んでいるが、寒さは誤魔化せていないようだ。吐き出す息は白く、風に晒された頬や鼻が赤い。

「ああ、貴女ですか…」
「……」

特に表情を変えるわけでもなく呟くように言った。彼女はそれに少しだけ苦笑を含んだ情けない顔をする。それが妙に見慣れたものに思えて、手のひらの力が抜けた。同時に吹き抜けた風が肌を撫でる。痛いほど冷たい風に思わず目を瞑った。あまりの寒さに熱いコーヒーでもどうかと問えば、彼女は小さく笑って頷いた。
家の中に入ると、庭同様に中も綺麗になっていた。それに驚きながらも奥へと進み、何年も使われてなかった暖炉を付ける。彼女に適当にソファーに腰掛けるよう促し、キッチンに向かった。見慣れたソファーやテーブルなどの家具、床、絨毯、壁の色。埃が積もっていることもなく、懐かしい匂いがした。それが何故かひどく虚無感を誘う。今にも母の穏やかな声がキッチンから聞こえてきそうだ。そんな感傷的なことを思う自分自身に自重が零れ落ちる。
それらの思考を振り払うように、やかんを火にかけ、葬儀の前に買ったインスタントのコーヒーをバッグから取り出した。食器棚から2つマグカップを取り出しては、コーヒーの粉と沸騰した湯を注いだ。その頃には暖炉の熱が部屋全体に行き渡り、ずいぶんと暖かくなっていた。それに喪服の上着とネクタイを取る。見慣れた白のワイシャツの上に適当にカーディガンを羽織り、彼女にコーヒーを進めた。

「ありがとうございます…」
「いえ」

一言言ってそれを彼女は口に運ぶ。白い湯気が吐息に揺れた。

「アポロ君」
「何か」
「…また、どこかに行くんですか?」
「!」
「もう、ここには帰って来ないんですか?」
「……」

どうだろう。口内に広がる苦味を飲み下しながら、曖昧に返事を返した。彼女はそれに少しだけ辛そうに表情を歪める。俯いた瞳に、睫が影を作った。

「そういう貴女は、今どちらにお住まいで?」
「!」
「それに恋人や旦那はいないんですか?いたらあまり長居はできないでしょう。心配させてしまう。」
「いませんよ。そんなの…」
「そうですか。」
「アポロ君は今どこに住んでいるんですか?」
「……」
「私、これでも本当は7年前に一度ここに来ているんです。」
「!」

意外な事実を告げられ、思わず目を見開く。それに7年前なら、私がちょうどあちらに渡って1年経った頃だ。あまりに奇妙なすれ違いに、思わず苦笑を零した。あと1年早く戻ってきたら、彼女と会っただろうに。そしたら私もまた違った道を歩んだのだろうか。無意味な仮定を立てる自分に僅かな嫌悪が掻き立てられる。目を伏せ感情に蓋をした。彼女は両手でカップを包むように持ち、コーヒーを見つめている。

「そしたら、この家にはもう誰もいなくて…近くの人に聞いたら、おばさんは入院して…アポロ君はずいぶんと前に家を出て行った切りだと聞かされました。」
「……」
「驚きました…。私はずっと、昔みたいにドアを叩けばアポロ君が出てくるって…思ってて」
「そうですか…」
「それから、私…探して、いたんです。」
「……!」
「ずっと、アポロ君の…こと…」
「…何故、」
「………」
「何故、私を探したのですか?」
「それは…」

俯いていた顔が、私を捉えた。何か深い感情を宿した瞳がほの暗く揺れる。しかし言葉はそれ以上続くことなく無音に消えた。痛ましげに歪められた表情が違和感を生む。

「…ごめんなさい、何でもないです。」
「……」

彼女は呟いてコーヒを口に運んだ。それに違和感が肥大する。まただ。また、電車で彼女と再会した時と同じ感じだ。不快とも取れる違和感に眉をひそめる。
何かを忘れている のだ。何かを思い出せない≠ナいる。
しかしそれが何なのか、皆目見当がつかない。頭に靄が纏わりついているような不快感にただ目の前の彼女を見た。

「…ごめんなさい、本当に。何でもないんです。今のは忘れてください。」
「……」
「私、もう帰りますね。ありがとうございました。」
「!」

カップにはまだ、半分ほどコーヒが残っている。立ち上がった彼女はコートを身に付け背を向けた。暖炉がパキパキと爆ぜる音をたてる。一瞬だけの沈黙に、やたらとその音が大きく響いた。
どこぞの三流映画ではあるまいし、彼女を引き止める気など毛頭なかった。「ごちそうさまでした」と頭を再び下げる彼女を無言で見やる。黒いコートを身にまとう彼女の背中が嫌に細く映った。玄関まで送っていくのが本来なら礼儀というものだろう。しかしどうしてもソファーから立ち上がる気になれなかった。茫洋と眺めて、彼女が視界から消えるのを待つ。その時彼女の背中が、過去の仕事に没頭していた頃の母の背中に重なった。
それに心臓が跳ね上がる。無理やり早なる鼓動を押さえ込もうとすれば、ソファーに白いマフラーが置き去りにされていたのが見えた。彼女の忘れ物だ。思いそれを片手に彼女を追うべく立ち上がる。ガチャンとドアが閉まる音に慌てて玄関に向かい、外に出た。漆黒の細い影に、呼びかけようと口を開いた。
しかし開いた口は音もなく閉ざされる。
違和感の原因が、皮肉にもわかってしまった。どんどん遠ざかり、小さくなっていく背中を呼び止めるすべを私は持っていない。右手で握り締めた白いマフラーに、罪悪感が広がった。

彼女の名前が、分からなかった。

名前を口にし、呼び止めなければならなかったのに。しかし私は彼女の名前が分からなかった。再会してここ2日、彼女の名前を一度も口にしていなかった。分からない。知らない。忘れてしまった。だから呼べるはずもなかったのだ。
彼女の寂しげな背中が思い出される。

鉛色の空からは、雪が降り始めた。






20100325




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