記憶に残る母は、写真の姿で時間を止めていた。現実にそれが有り得ないことは当たり前であり、私自身もそんな幻想は抱いていない。人とは年を取り死に向かっていく生き物だ。姿形は枯れ木のように潤いを無くし、萎んでいく。醜い姿で果てていく。時間とは人間を死に向かわせる乗り物だ。だが、だからといってどう思うわけでもない。それは極自然なことに過ぎないのだ。
病室の前に立ち、不自然に心臓は鼓動を打つ。
トアノブを握る手のひらにジワリと汗が滲んだ。体は雪の中を歩いてきたせいで冷え切っているのに、腹の底からはどこからともなく熱が沸いてくる。隣に立つ彼女に気取らないよう、小さく吐息をついた。トアノブを握り直し、無意識に足元に落ちていた視線を上げる。

「アポロ君」
「!」

しかしいざドアを開けようと体に力を入れれば、不意に口を開いた彼女によってそれは遮られてしまった。出端をくじかれたような気分に、つい眉をひそめて彼女に視線を向ける。対しどこか曇っいた彼女の顔には、それにかすかな困惑の色が混じった。数度まばたきを繰り返した後に遠慮がちに言葉は紡がれる。

「大丈夫、ですか?」
「…ずいぶんと今更な質問ですね。ここにきて腹を決めないほど薄志な人間ではありませんが」
「でも…」
「……!」

冷え切って赤くなった手の甲が、自身の手のひらに重なる。感覚を奪われて麻痺した手には、冷たさも温かさも伝わらなかった。今握っているドアノブ同様、無機物に触れているような感覚だ。それを眺めて、彼女に視線を戻した。眉をひそめながら何なのかと問えば、彼女は少しだけ眉を寄せる。そして躊躇いがちに口を開いた。

「震えてます」
「!」
「もう10分も、このままですよ…」
「……」

そんなに、経っていただろうか。言われた言葉に瞠目する。途端に体に熱が戻ったかのように、ドアノブや彼女の手の冷たさがジンワリと右手を包んだ。我に返り、それを強引に振り払うようにドアを開ける。心臓が一瞬大きく飛び跳ねた。早鐘を打ち始める鼓動に、呼吸が浅くなる。視界には蛍光灯に照らされた、無機質な白色の空間が広がっていた。
その中心に横たわる、真っ白なシーツにくるまった母。周りには過去に何度か見た女性と男性…親戚の姿がある。彼らの視線が一斉にこちらに注がれ、緊迫した空気が室内を満たした。時間が止まったかのように、各々の動きが停止する。肺腑を満たす空気が冷たい。暖房が入っているにも関わらず、体温が下がっていくような気がした。しかしそれも彼女の一言が打破した。

「お久しぶりです。あの、私は母の代理で来ました。」
「!」

彼女の一言でとっさに我に返る。女性の方が答えるように頭を下げた。そして頭を上げると再びこちらに視線を向け、瞠目して私の名前を呟く。それに頭を下げれば、途端に彼らの表情は歪み、目からは大粒の涙が零れた。
よく帰ってきてくれた。今まで大変だっただろう。お金を送ってきてくれたことは知っている。そのために遠くまで行って仕事をしていたのだろう。
彼らの口から紡がれる言葉は事実だが、きっと真実ではない。私はそんな綺麗な理由など持っていないのだから。何も言えずそこに立ち尽くしていれば、彼らは再び頭を下げて病室を出ていった。
病室には必然的に私と彼女だけが残される。閉ざされたドアを眺めて、視線をゆっくりと体を白で覆われた母へと向けた。小さい。とても。とても小さくその体は輪郭を作っている。シーツから覗く肌はくすみ、しわを深く刻んでいた。長年の疲労と苦痛を、まるで体に刻印したようだ。奇妙な沈黙と居心地の悪さに、思わず視線を足元に落とした。

「アポロ君」
「何ですか」
「…お母さんの顔、見ないんですか…?」
「見て、何になるというのです」
「あの、でも…もうずっと会ってないんでしょう?最後はちゃんと…」
「……」
「アポロ君、」
「…それより、もう真夜中の1時ですよ。ホテルなり宿屋なり行ったらどうですか?」
「!……あ、実は、慌てて駆けつけたもので…。予約とか取ってなかったんで、今日は病院に…」
「……」
「ああ、でも待合室にいるので、気にしないでください。だから、アポロ君はちゃんとお母さんの顔を見てあげてください」
「……」
「おばさん、いつもアポロ君の心配してましたから…」
「!」

その言葉に、反射的に彼女に視線を向ける。しかし同時にドアの閉まる音が響き、部屋は無音に包まれた。壁一枚を隔て遠ざかる足音に、目を伏せる。
どうしろというのだろう。8年も顔を見せず、帰った時には覚めぬ眠りに就いた母に、何を言えというのだろう。
ベッドの側まで近寄り、顔にかかった布を取ろうと手を伸ばす。しかし何かがそれを躊躇わせる。どうしても布を取ることができなかった。行き場をなくした手のひらを握り締め、静かに目をそらした。
どうしろと、いうのだろう。

「………」

深く息を吐き出し、踵を返す。白く不透明な空間を背にし、私もまた病室を出た。

病室と打って変わって廊下は冷たい。僅かな明かりに照らされた先は、黒く塗りつぶされていた。足音がやたら大きく反響する音を聞きながら、ゆっくりと進む。そしてちょうど門を曲がったときだ。自販機の明かりにぼんやりと照らされた背中が視界に入る。ずらりと椅子が並べられた空間に、彼女は静かに佇んでいた。
やや間をおいてから、気配に気付いたのか彼女はこちらを振り返る。彼女は驚いたように目を丸くした後に、かすかに笑みを作った。それに特に反応はせず、視線をそらす。そしてポケットに入っている硬貨の存在を確認しながら、自販機に近寄った。特に迷うわけでもなくコーヒーを2つ購入し、彼女に視線を向ける。薄気味悪い空間に、ただ黙って彼女は座っている。本当にこんなところで夜を明かすつもりなのだろうか。思いながらそちらに寄って、椅子を一つ空けた場所に腰を下ろした。2つ持った缶コーヒーのうち、一つを彼女に差し出す。

「ありがとうございます」
「いえ…」

薄く笑みを浮かべながら、白い両手が缶コーヒーを包む。薄暗いせいか顔色が青白い。缶コーヒーを開けながらその横顔を眺め、一口だけ口に含んだ。口内にはジンワリと苦味が広がる。喉から腹に熱が落ちる感覚に、目が一気に覚めた気がした。

「アポロ君、」
「!」

ふと、彼女が口を開く。缶から口を離し、彼女に向き直った。彼女は両手で缶を握り締め、それを見つめながら口を開いた。

「人の体って、常に外部から入ってきた異物や、体内にある自分以外のもの≠ノは攻撃するようにできてるんですよ」
「……」

そんなことくらい知っている。人には病原菌やウィルスに対する免疫がある。体内に侵入してきた異物を徹底的に排除する。だからこそ病気も怪我も治る。専門的なことまでは知らないが、一般常識的な知識くらい持っている。

「だから体の中に他人≠ェ入って来たらダメなんですよ。攻撃されてしまうから。個人という絶対的に不可侵な領域は、踏み入れられることはないし、踏み入れることもない」
「……」
「でも、母親≠セけは違うんですよ」
「!」
「免疫は体の中にある自分以外≠フものを攻撃する」
「……」
「でも、母親の体はお腹の中の子供を、絶対に攻撃しないんです」
「……!」

何かが、込み上げた。
目を見開き彼女に視線を向ける。彼女はただ、悲しげに笑いながら私を見た。

「不思議ですよね…。だって、臓器移植でも適合するものがあったって拒絶反応が起こるんですよ。なのに全く別の人間がお腹の中にいたって、母親は絶対に子供を攻撃しないんです。」
「……」
「守ってるんです。子供は、生まれながらにずっと、守られているんです。だから」
「……!」
「ちゃんと、顔を見てあげてください。ずっとずっと、アポロ君のこと心配していたんです。お母さんって、最後に呼んであげてください。」
「…何を、…そうしたとして、何の意味があるのですか」
「だって、アポロ君だってお母さんのこと守ろうとしてたじゃないですか」
「……」

違う。違うのだ。そんな綺麗な動機など私は持ち合わせていない。遠い地方へ行ったのは弱っていく母に見切りをつけたからだ。金を送っていたのは、罪悪感から逃れるためだ。綺麗な親子愛など、私と母親の間には存在しない。

「じゃあどうして戻ってきたんですか」
「!」
「忘れられないからじゃないんですか」

息がつまる。真っ直ぐ見つめてくる視線をやけに痛かった。込み上げてくる泥ついた熱が、喉に絡みつき締め付ける。必死に理性をかき集め、平生の自分を探した。彼女は今だ、悲しげに自分を見ている。それにたまらず視線をそらせば、彼女はゆっくりと椅子から立ち上がった。

「アポロ君、」
「……」
「行きましょう。ちゃんと、顔を見ないと。」
「………」

白い手が私の左手を掴んだ。まるでぬかるみに嵌った体を引き上げるように引っ張る。それにゆっくりと腰を上げた。手のひらからは、ひんやりとした冷たさが伝わった。
ふと、胸中に何かが引っかかる。不意に脳裏に映像が去来し、息を飲んだ。過去にも、こんな光景はあった。
遠い昔。外に連れ出したがる幼い彼女の手に引かれ、歩き出したドアの向こう側。重なってしまうのは、久しぶりに故郷を訪れたからだろうか。
少し強引に手を引いていく彼女に連れられ、再び病室に戻った。横たわる母の前に立ち、布に隠された面差しを思う。

「顔を、見てあげてください」
「……」

躊躇うように一瞬だけ動きを止めた。しかしゆっくりと手を伸ばし、布を捲る。色をなくした頬は白く、苦労がしわとして深く刻まれた顔が現れた。固く閉ざされた瞼は、もう二度と開くことはない。睫毛が目元に浅く影を落としていた。そこだけが生前と変わらない。記憶に残る面影を確かに残し、母は音もなく眠っていた。

「、…」

何かを言おうとすれば何かが込み上げる。それに無意識に、まだ掴んだままだった彼女の手を握り締めた。不安げに向けられる視線に苦笑を零した。脳裏に若い母の笑顔が再生される。それが今目の前で穏やかに目を閉じる顔と重なった。

「…母、さん…」

言って唇をキツく閉じる。でなければ込み上げてくる感情を押さえ込むことができそうになかった。左手に感じる熱だけが、生きていた。

繋いだ手はいつも、彼女からだった。常に彼女からの一方的なものだった。それは繋いだというより、むしろ掴んでいたという方がしっくりくる。私はいつも手のひらをひらいたまま、自分からは決して握らない。ただ、彼女が手を離そうとした時に限り、その瞬間だけ手のひらを握り締めた。そうすれば、もう少し彼女が隣にいてくれることを知っていたからだ。
母と手を繋いだ記憶も、朧気にある。それもきっと、同じだった。
繋ぐ手が一つ失われたと思うとひどく虚しくて、しかし今ある手のひらの暖かさを思うと安堵した。

ただ静かにそこに立ち尽くして、穏やかさを称えた母の顔を見詰める。
せめて来世は、幸せになれたらいい。
神など信じてはいないけれど、そんなことを思った。







20100321




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