母の訃報を聞き、8年振りに帰省した。

中途半端だった仕事を部下に押しつけ、必要なものを抱えて急ぎアサギシティから乗船する。ジョウトからシンオウに着くまでには、きっと日が暮れてしまうだろう。日頃の疲れからくる倦怠感を必死に噛み殺し、頭の中では着いてからの予定を組み立てていた。波に揺らめく船路の海面は、吐き気を誘う。きっと疲れているせいだ。酔い止めの錠剤を飲み下してはやり過ごす。案の定、ミオの港に着くころには日は完全に沈み、海も空も黒く塗りつぶされていた。地平線すら闇に飲み込まれた世界は、ゆったりと蠢き時を刻む。刻一刻と迫り来る刻限に、休む間もなく最終電車に乗り込んだ。

終電というだけあって、長く細く続く座席には一人も乗っていなかった。目が痛むような白い蛍光灯に照らされた長い箱の中には、ただ深く濃い影だけが存在を誇示する。車内に響く運転手の気だるそうなアナウンスを聞きながら、ドアに近い場所に腰を下ろした。
同時に歪に揺れ出す車体は、船同様に不快だった。
背もたれに全身を預け、宙を眺める。神経質に点滅を繰り返す蛍光灯は、そろそろ電球の換え時だろう。隣に置いた大きめのバッグから、もう何年も視界に入れなかった手帳を出した。手帳には写真が挟まっている。薄い水色の髪の6歳前後の少年と、20代後半の女性だ。少年の方は寸分も笑わず無表情で、女性の方はそんな少年の肩を優しく抱き寄せ微笑んでいる。二人が親子なのは一目瞭然だった。自分と母が映っている写真を見詰め、静かに息を吐き出す。

母から愛情をもらったことはあまりない。だが、あの人が私を愛してくれていたのは知っている。

私の家は比較的裕福であった。しかし物心ついたころには父親はなく、母と二人きりになっていた。父親の行方は知らない。ただ、親戚や隣人たちが、父親は他に女を作って逃げたのだと、金目当てで母に近付いたのだと、呪詛を巻き散らかしていたのをドアの隙間から聞いたことがある。母は以来、仕事に没頭するようになった。もちろん生活費を稼ぐということもあっただろう。しかし裕福であった家を思えば、そこまでする必要はなかったはずだ。あの人のそれは、限度を超えているようにも思えた。詰まるところ夫に逃げられた寂しさを紛らわせたかったのだ。
母は平日も休日も家にはいなかった。常に冷たい箱の中で私は一人で食事をし、一人で夜を過ごした。時折家のドアを叩き、私を外に連れ出しては遊びに誘う子供もいた気がするが、今となっては風化されてしまった記憶だ。その相手の顔など深い霧の向こう側にあるようで思い出せない。結局思い出せるのは一人だった記憶だけだ。しかしそれを寂しいと思ったことはない。気付いた時にはそれが当たり前になっていたのだ。そう、刷り込まれていたのだ。
そして私が15になった時、母はとうとう病に倒れた。原因は単純だ。過度の労働が精神的にも肉体的にもあの人を限界まですり減らしていったのだ。以来ずっと入院生活を送っている。
同時期、私はある組織に加入した。シンオウを離れ、カントーで暗躍することを選んだ。理由は単純だった。かの統率者のカリスマ性に引きずり込まれた。それだけだ。親族たちは母の看病に疲れて逃げ出した程度にしか思わなかったのだろう。母が亡くなるまで誰も私を探そうとはしなかった。だが実際には組織での収入の半分は常に母の治療に回していた。笑えることにこの8年間、私は悪の組織などと呼称される立場にありながら、ひたすら金を送り続けたのだ。それももう、終わる。あの人はとうと逝ってしまう。しかし実感もなければ、悲しみもない。あの人と過ごした記憶自体希薄だった私には、何一つとして興味のない知らせであった。


大きくぐらついた車体に意識が浮上した。慣性のままに頭が揺らされ、瞼を持ち上げる。どうやら寝ていたようだ。重く雲がかかる思考を振り払うように息を吐き出した。携帯を取り出し時刻を確認すれば、時刻はそろそろ23時を回る。次で最終駅だろう。ようやく目的に着くという感覚に、再び込み上げてきそうになる疲れを飲み込んだ。そして何気なしに顔を上げる。

向かいの席に、女性が一人座っていた。

しかし彼女も寝ているのだろう。首を深く擡げている。電車に合わせて揺れる姿はどこか危なっかしく、急停車でもしたら思い切り床に倒れ込んでしまうのではないか。
茫洋と向かいに座る女を見ながら足元に視線を落とした。車体が揺れる。気持ち悪い。不快感に眉をひそめては目を瞑る。
不意に爪先にコツンと小さな衝撃が走った。驚いて足元で転がっているものを手に取れば、それはモンスターボールだ。少しの間それを眺めて、しかしすぐにそれが今向かいに座る彼女のものだとわかった。おそらく車体の揺れに滑り落ちたのだろう。
特に深く気にとめるわけでもなく、今だ首を擡げて眠りこけている彼女に声をかけた。

「すみません、落ちましたよ」
「!」

ピクリと一瞬だけ肩が震え、次いでゆっくりと首を持ち上げる。蛍光灯に照らされた白い顔が視界に映った。

「あ…すみ…ません…」
「……?」

こちらを見るなり彼女の顔は突然狼狽える。深夜の電車に男と二人きりなのだから、慌てるのも無理はない。おどおどとした様子で彼女は受け取り、再び頭を下げた。
しかしそれ以上に、彼女を見るなり何故か胸中に違和感が発露した。どこかで見かけたことがあるのだろうか。だが記憶の中から彼女を探し当てることができない。奇妙な違和感がゆっくりと思考に浸透し、思わず首を傾げた。

「……」
「…どうかしたんですか?」
「いえ、何でも…」
「……それと、あの、貴方はどちらまで行く予定で…?」
「…終点までです。」
「!私と同じですね。」
「……」

そうはいうが、次はもう終点だ。ズレたことを笑顔で言う彼女に、苦笑を返す。しかし今の今まで寝ていたのだから、今がどこなのかもわからないのだろう。ひとまず眠気を紛らわすのにちょうどいいだろうと思い、椅子に座り直して向き合った。

「では貴女もキッサキへ?」
「はい。あそこは万年雪がありますから、暖かい格好をしていかなければなりませんね」
「そうですね」

ちらりとバッグに入ってあるコートを思いながら頷いた。

「…そういえば、あそこには神殿がありましたね。貴女は観光ですか?」
「!あ…いえ…実は、知り合いの方が…」
「?」
「亡くなられて…」
「…訃報が届いたわけですか」
「…はい」

彼女はゆっくりとした動作で俯いた。瞳の陰りが深く濃いものに見えたのは、おそらく蛍光灯のせいではない。一呼吸おいた後に、私もそうだと返した。彼女の目が丸くなる。

「そうなんですか?」
「ええ、まあ」
「何だか不思議な偶然ですね、それに」
「何か?」
「いえ、私、ちょうど16年前にキッサキに住んでいたんです。まだ6歳か7歳の時になるんですけど。その時近所に男の子が住んでて、よく一緒に遊んだから…」
「――!」

不意に、何か思い出しそうになった。喉元まで出かけたそれは、しかし奇妙なところで腹の中に戻ってしまう。寸前のところで掴み損ねたそれに焦れったさを感じながらも、彼女の話に耳を傾ける。

「その子、ちょうど今貴方と同じくらいの年なんです」
「……」
「髪とか、目の色とか…少し似てるような気がして…」
「似てる…?」

違う、と思った。似てるのではない。いや、だとしたら何だ?何かが思い出されそうで、しかしうまく出てこない。風化された記憶の淵に埋もれた何かを、必死に手探りで探し求める。何かが手のひらをかすったような感覚に、心臓が早鐘を打ち始めた。

「その子、頭が良くて運動もできて、でも、家が大変みたいで…。いつもひとりぼっちでした」
「……!」

あ…、

「私、その子といつも遊んでて…。」

そうだ。家では一人だったが、家の外では違うのだ。

「すごく昔のことだからよく覚えてないんですが」

あの時、家のドアを叩いて私を呼んだのは。

「でも、なんとなく忘れられなかったんです」

私はこの女を知っている。

「途中でジョウトに引っ越ししてしまったんで」

あの、時、の。

脳裏に幼い子供二人が浮かび上がる。ドアを叩き、私を外に連れ出した。その時の子供は。確実に何かを掴めた気がした。子供のうち片方は自分だ。ではもう片方は。そうだ。これだ。長い年月の間にだいぶ容姿は変わっているが、きっとこれだ。

「なんて…どうでもいいですよね」

情けない顔の笑顔も、髪や目の色も、変わってない。息が一瞬だけつまった。早なる心臓を押さえ込み、私は首を振った。

「そんなことはありませんよ」
「あ…ありがとうございます…」
「いえ」
「…あの、」
「?」
「あ…いえ、やっぱり、何でもないです…」

そらされた視線は足元へと向けられた。それにこみ上げてくる熱を抑えようと、口元を右手で覆った。
同時に電車が止まる。終点に着いたというアナウンスが二人しかいない車内に流れた。

「降りましょうか」
「はい」

一声かけて歩き出す。後ろをついてくる彼女に一度だけ視線を向けた。運賃を払いホームから出る。
8年経っても、キッサキは変わらず一面銀世界だった。身を切るような寒さには懐かしさ以上に痛みしか感じない。それは私の帰りを寸分も歓迎していないということだろうか。
同時に母の姿が脳裏をよぎり、得体の知れない感情に襲われる。指先から、熱も生気も奪われていくようだった。寒さに両の手を合わせて握る。ホームから出る前に着込んだコートと、首に巻いたマフラーに顔を埋めた。
そしてふと、隣に立った彼女を見る。
ひどく沈痛な面持ちなのは、あの人の死を思ってだからだろうか。
ほとんど無意識に彼女の腕を掴んでいた。そして歩き出す。

「!あ、あの、どうしたんですか?何か…」
「いえ、目的地はどうせ一緒なので」
「!」
「一緒に行きましょう」
「あ…の、もしかして、本当に…」
「…やめてください。不謹慎ですよ。」
「!すみ、ません。でも、本当に…私のこと、」
「……、…病院はあっちでしたか」
「あ…はい」


一人では、やはり不安だったのだろうか。
一人では、やはり寂しかったのだろう。
今こうして8年ぶりに母の顔を見る日を前に、私は情けないほどに戦慄していた。
果たして本当に愛してくれていたのか。
もしかしたら今は憎んでいるかもしれない。
呪詛を吐かれるのではないのだろうか。
だからだろう。
掴んだ腕を離すことなどできない。
あの人に会う日を、地獄の入り口のように感じていた。
そこでようやく見つけた蜘蛛の糸を、離すことなどできない。

隣で悲しげに笑う彼女は言った。


「私はアポロ君の味方ですよ…って、言ったの覚えてますか?」

それは16年経っても変わりません。

それは彼女が16年前、去り際に言った言葉であり、また母から聞いた最後の愛情の言葉でもあった。








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20100317




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