檻だと、思った。
そして檻の外は真っ白な世界だ。
何もない。
しかし時折遠くで音が聞こえる。
何かが近づいてくる。
足音だ。
私はおそらく、檻の外へと出たいのだろう。
その檻は、どうにもきついのだ。
足音が近づいてくるのを待っている。
白い世界に、足音だけが響いている。
近づいているはずなのに、音だけが大きくなるばかりで姿が見えない。
足音が一際大きく鼓膜を突いた。
鉄格子のすぐ向こう側で、足音は止まる。
真っ白な世界だ。
そこで視覚できるのは、私と檻と白い世界だけ。
足音の主は、どうにも見えない。
檻がきつい。
それが不快だった。
再び足音が響いて、不意に体が楽になる。
檻が、開いた。

私は檻から出ていく。
私は檻を開けた足音の主を知らない。


***


「終わりましたか」

緑青の瞳を細める。ゆっくりとそちらへと近付けば、彼女はゆるりと振り返った。それに合わせるようにゲンガーが宙を旋回する。彼女のすぐそばの椅子では、深く首を擡げた青年が固く眼を閉ざしていた。浅く上下する肩を見る限り、眠っているだけなのだろう。組織の司令塔たる実力を持つ男が、組織の下層に住み着く女の術中にかかったのだ。可笑しな話だ。

「君の考えはわかりませんね。せっかく思い出したのだから、そのままでもいいでしょうに」
「…いえ…」

それでは駄目なのです。
彼女はゆっくりとそう紡いだ。その瞳には濃い疲労が浮かんでいる。視線を眠る青年へと戻し、瞼を伏せた。

「私はあの日に取り憑かれている馬鹿ですから…」
「……」
「アポロ君は今の私を解って≠オまっては駄目なのです。幼い私が記憶にいて、それだけを解っていればいい…。今の私は不可解な存在≠ニしてここにあり、初めて彼の中で生きた人間となる。」
「過去の自分と今の自分を別人としてとらえていただきたいと?しかし今の君を忘れてしまっては、今の君は存在しないも同然でしょう」
「いいえ、忘れてしまうのと存在しないのとでは別です」
「……」
「私は彼の思い出そうともしない限り、意識されない朧気な記憶の中に生きている。それは今にないからこそ価値を与えられ、彼の中で思い出と昇華される。過去にあったモノが今もあっては、それには価値がない」
「……」
「私は彼の中では記憶の片鱗にいた人間≠ネのです。思い出の人≠ニ言えばいいですか…。だからこそ美化され昇華され、そこに人間としての価値を与えられる。存在する意義を、私は得る。」
「…詭弁だ。要は幼少時の初恋の相手を、大人になっても憧れとして覚えている。そんな単純な記憶の美化でしょう。」

君自身に価値があるのではない。記憶≠ノ価値があるのだ。抑揚に欠けた口調で言い放つ。彼女はかすかに眉を下げた。情けない笑い顔だった。

「そうまでして、君は居場所が欲しいのですか」
「私には必要なのです」
「そんな曖昧なもの、まやかしだと言うのに」
「…そうかもしれません…」

彼女はゆっくりと眠る青年の髪に触れた。彼の記憶には、今こうして彼女と話した記憶はもう霧散してしまったのだろう。
歪な執着心だ。
しかし単純に彼女は今の自分を否定されるのを怯えているだけなのだと思う。今はもう過去のような対等な人間ではない。何よりも彼女は彼に負い目を感じている。何があったかなんて知らないが、罪の意識が彼女を過去に縛り付けるのだろう。それはまるで檻だ。邪気を纏わぬ幼少時の二人の親愛に偶像を抱いているだけだ。戻れないから、綺麗なモノとして記憶の隅に飾っておく。彼女は彼にそれを強要しているのだ。今の歪んだ自分を隠すために。過去の自分の存在価値を得るために。
そうして初めて、彼女は自分の居場所を得るのだろう。
その居場所とは、何よりも彼に近く、しかしひどく彼から遠い場所だ。あるいはそれが彼女が自らに架した罰なのかもしれない。

「歪んでいますね」
「そうかもしれません…」
「自覚がありますか。そうして君は、明日からまた私の部下として平然と生きていくというわけでしょう。」
「…はい。…でも、」
「?」


私は彼を想っていた


埋めようのない一方的な亀裂を感じていて、行き場のない罪悪感に苛まれていた。罰を架すことで罪悪感から逃れる。居場所を作ることで擬似的な安堵を得る。彼女の人生は人工的な作り物ばかりだ。しかしそれにたった一つ、間違いなく発露した感情がある。長い間抱いてきた一つの真情。
それが彼女を今回動かしたのだろう。
会って話をし、一瞬でも過去のような時間を過ごしたい。その願いは叶った。ただ、彼女が求めたのは過去の再現≠ナ、彼が探したのが今の彼女≠ニいう一つの齟齬を除いて。

彼女はゆっくりと彼から離れた。今回のことに礼を口にするその瞳を一瞥し、目をそらす。報われないとは、このことをいうのだろう。眠る彼を残して部屋を出る。白い壁に包まれた空間はドアで遮断された。ゆっくりと遠ざかっていく足音に、果たして彼はどんな思いを抱いただろうか。



***



意識が浮上した。どうやら寝ていたらしい。擡げていた首が鈍い痛みを訴える。どうにも頭が重い。疲れているのだろうか。うまく回らない思考を引きずりながら椅子から立ち上がった。同時に奇妙な感覚に襲われる。頭の中からスッと何かが抜け落ちた。それにより意識が透明なほど明瞭になる。しかし体の中心に風穴でも空いたような虚しさが去来した。意識が輪郭を取り戻すにつれ、体の中心を得体の知れない感情がジワジワと侵食する。
何なのだろう。
何かが足りないような錯覚にゆっくりと部屋の中を見渡した。
白い壁に囲まれた空間は、ただ沈黙している。

そうだ。夢を見たのだ。

ふと脳裏をよぎる考え。しかしどんな夢だったかはよく覚えていない。ただひどく抽象的だったという印象だけが漠然と残った。奇妙な虚しさは、そこから来るのだろうか。
どちらにしても、その時点で私にはもうどうでもいいことになっていた。時計の針を見れば深夜を指している。そういえば、私は一体いつからここにいたのだろう。ふと浮かんだ疑問は、しかしいとも簡単に意識の奥深くへと埋没してしまった。



***


時間というものは容赦なく記憶を殺していく。あれから数週間して、私はすっかりそのことなど忘れ去っていた。ただ母の葬儀に参列したことだけは覚えている。ただどうにもその時の記憶が曖昧だ。奇妙な喪失感すら覚えた。おそらく疲れていたのだろう。一々気にとめることも面倒になり止めた。いや、どちらかというと諦めたという方が正しいかもしれない。無理に思い出そうとするのを止めたのだ。

組織の計画は順調に進んでいる。下らない私情など、挟む間はない。

胸中に渦を巻く不可解な感情を噛み締める。そして言い聞かせるように頭で念じて、足元を睨んでいた視線を上げた。灰白色の壁に囲まれた廊下は、ひんやりとした空気で満ちている。向かっているのはアジトにある自室だ。気まぐれで外の空気を吸いにいった帰りだった。
午後には部下が報告書を持ってくる。そのために進んでいた廊下で、ふと、別の足音が重なった。

アジトの中なのだから、他の団員がいるのは珍しいことではない。しかし今はほとんどの部隊が出払っていたと思っていたぶん、些か不思議だった。

足音は突き当たりの角を曲がってやって来る。興味はなかったが顔を上げてそちらを見れば、下っ端らしい女が書類の束を抱えて歩いていた。
何度か見た顔だ。確かランスの部隊の。
徐々に近付いてくる足音に女も気付いたのか、顔を上げた。そしてこちらを確認するなり深く頭を下げる。同時に抱えていた書類の束から、数枚の書類が彼女の腕から滑り落ちた。女の間の抜けた行動に思わず弛緩してしまう。
床に散らばる白い紙は、まるで慌てる彼女をからかうように宙を舞う。深く吐息をつきながら足元で落ちた書類の一枚を拾い上げた。

「す、すみません」
「…少しは気をつけなさい」

言いながら手渡せば、女は眉を下げて笑う。何だか情けない笑い顔だった。
その顔に再び吐息をついた。先ほどまで細かなことを考えていた自分が何故か馬鹿に思えてくる。彼女は再び頭を下げて、歩き出した。

ふと、擦れ違いざまに奇妙な感覚に襲われ、無意識に彼女を振り返った。その背中に言い難い郷愁の念に駆られ、眉をひそめる。脳裏には彼女の情けない笑い顔が再生された。それに先ほどまで痼りのようにあった不可解な感情が、綺麗に消え去っていく。

「――待ちなさい」
「!」

ふとよぎる考えに彼女を呼び止める。驚いたように目を丸くする顔を無視して、彼女の名前を尋ねた。そうしてどこか躊躇いがちに紡がれた名前を頭の中で反芻して、その場から去る。

(ああ、そうか)

やっと。やっとだ。
ずいぶんと遠回りをしてしまったような気がする。小さく苦笑しながら今一度彼女を振り返った。どこか軽い足取りで去っていく背中に眼を細める。



16年越しの思いが、やっと通じたのだ。
漠然とした予感と確信に、過去の映像が去来する。

それはまだ幼い自分と、唯一の友人だったであろう少女の姿だった。










2010501





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