彼女はただ、青ざめた顔で私の向かいに座っていた。テーブルの端を見詰める瞳は色をなくし、必死に平静を手繰り寄せている。無意識に肩に力でも入っているのか、その体は先ほどからびくともしない。色のない顔。動かない体。まるで彫刻のようだ。しんとした空間はひたすらおとなしく、冷えた空気が立ちこめていた。
カップから細く伸びるコーヒーの湯気が、時折空気の揺れに消えかかる。冷めてしまうと声をかければ、その肩はびくりと震えた。

「…今更、過去のことを掘り返す気などありません…」
「……」
「ただ貴女はあまりに不可解だった。」
「…不可解…?」
「ええ、それだけでも聞いておきたい」

一口、冷めぬうちにとコーヒーを口内に含んだ。舌から伝わるのは温い苦味だけ。それを噛み締め黒い波紋を打つカップを眺める。
内心、少しだけ焦っていた。
今までの不可思議な事象も、疑問も、問も、それら全ての答えが今目の前にある。聞き出そうと思えばいくらでも聞き出せる。そのはずなのに、それらはうまく言葉にならない。言葉という形を得る前に霧散してしまう。罪悪感が広がっていく。奇妙な沈黙は、僅かな時間すらひどく長く感じさせた。倦怠感を錯覚させるほど嫌な無音だった。
しかしそれは唐突に破られる。緊張からか、それとも恐怖からか、どちらともつかない震えた声が、言葉を零した。

「あの、」

細い声だ。弱々しく頼りない。記憶に残るものに一致しない。しかしこれが彼女の今なのだ。
口を開いた彼女を特に遮ろうとはせず、ただ視線を向けた。視線が合うなり微かに怯んだ瞳は宙を泳ぐ。続きを促すように沈黙を守れば、彼女は躊躇いがちに言葉を続けた。

「嘘では、ありません…」
「……」
「私が組織に入る前…7年前に、アポロ、様…に、会うためシンオウに行ったのも」
「……」
「貴方がすでにいらっしゃらなくて、探していたことも、」

嘘ではない。
彼女は今、組織の一員として、上司である私に言葉を投げかけている。それに背筋に寒気が絡みつく。今目の前にいる彼女の私に対する概念と、私が抱くそれが大きくずれていることを突きつけられた気がしたからだ。組織という枠組みの中で、彼女はそれに合わせて己の纏う意識を変えている。シンオウで会った彼女と、今いる彼女の表面は別物なのだ。長い月日の流れと大きな空白に、埋めがたい溝ができていたことを私はようやく知った。同時に抱いた得体の知れない虚しさと冷たさが、心臓に突き刺さる。ひどく不快な気分になった。

「謝らないといけないと、思っていました。ずっと…」
「……」
「でも、貴方は私を忘れて、しまっていたので…これでは謝っても意味がないと…」
「…だから組織に?」
「いえ」
「?」
「貴方に謝るために組織に入りました。組織に入って、貴方にもう何度も会っています。でも、貴方は私を知らなかった、から…」
「!」
「アポロ様は組織を大切にしていらっしゃったので、私はそれに少しでも力になろうと、尽くそうと思ったのです。そうして償おうと」

―――なんて、滑稽な話だろうか。
謝れないから、その代わりにこんな道に足を踏み入れたのか。可笑しな話だ。笑えない。詰まらない。そこまでする理由などない。幼い頃の子供の喧嘩だ。そんなものを、大人になってまで償おうなどと普通は思わない。後味が確かに悪いかもしれないが、そこまでするほど価値はないのだ。現に私は忘れていた。それは下らない、詰まらない過去の出来事なのだ。だというのに、償うために彼女は私を追ってきたのか。何年もの間、同じ組織の中で、今は部下として、近い場所にいたということか。では私は、この7年間全く気付かなかったということか。
なんて馬鹿げている。

「くだらない…」
「…はい」
「そこまでしても、何にもなりはしないのに」
「そうかもしれません」
「……」

情けない顔で彼女は笑った。それが記憶に深く根付いたものと合致する。先ほどまで青ざめてしどろもどろだった口調も、気付けば饒舌なものになっていた。
嗚呼、彼女≠セ。
奇妙な実感が胸中に波紋する。それに先ほど抱いた違和感も感情も全て溶けていった。
同時にふと、シンオウで彼女が忘れていった白いマフラーを思い出す。目の前にある笑い顔から一度視線を放し立ち上がった。少しだけ訝しげな顔をした彼女を無視し、移動する。そして引き出しからそれを取り出し、彼女に差し出した。一瞬だけ丸くなったその瞳は、すぐにはにかむような笑顔に変わる。
そしてそれを見詰めながら、彼女は「でも」と言葉を続けた。

「会えたなら、意味が無いなんてことは、ないです」
「……」
「ほら、病院で言ったでしょう。おばさん、ずっと心配してたって…」
「…そうかもしれませんね」
「私、おばさんにとてもお世話になりました。貴方がいなくなって、とても心配してたから探そうと思ったのです」
「…私の母の為ですか」
「いえ、…自分の為です」
「……」
「おばさんは言いました。万が一のことがあったら息子を頼むって。私はずっとあの日に負い目を感じていました。だから、きっとそうすることが償いになるんだって…」
「……」
「やっとわかったんです。私が如何に無神経だったか…」
「何故」
「親を失って、初めてわかったんです」
「!」
「だけど私は傲慢でした。私なんかが貴方の虚ろを埋められずはずがないのに。貴方は私を覚えてはいないのに。詰まらない幻想を抱いていました…。」
「……」

彼女の親も、亡くなってしまったのか。新しく知った事実は奇妙に現実味に欠けていた。彼女の両親の顔なんて、それこそ覚えてはいない。しかし画に描いたような幸せそうな親子の姿は、私の知らないところで崩壊していた。現実味はないのに虚脱感に襲われた。おそらくそれがきっかけになり、彼女の中の罪悪感は膨張したのか。そして私の母の言葉を引き金に、行動にでた。
一体、どんな思いで組織内で過ごしてきたのだろう。
虚しいだけの時間が降り積もり、不毛なだけの行いが積み重なる。おそらく彼女が私に声をかけたことがあったとしても、私は冷たく知らない他人としてあしらったはずだ。記憶にないのが何よりも証拠だろう。それでも諦めずにここにいたのか。いや、諦めたから、ここにいたのかもしれない。

「でも、あの日…」
「!」
「私が、不注意でいつも持っていた子供の頃の写真を落として…それがランス様に拾われてしまって…」
「…ああ…そういうことですか…」

ようやくランスの言っていた言葉の意味がわかった気がした。部下がいないというのは彼女をシンオウに送ったからか。そして雪女というのは、おそらく彼女の比喩だろう。ラムダの様子もランスのやっていることに感づいたための言動に思える。
…部下に遊びの対象にされていたとは。何とも言えない苦みが波紋し、無意識に表情が歪む。するとそれに何を思ったのか、彼女はまるで弁解するような言葉は発した。

「ランス様は、ゲームだなんて言っていました…でも、それでも私にとってはすごく、有り難い協力で…」
「いいですよ。気にしていません。」
「そう…ですか」
「ただ」
「?」
「シンオウでのことは、説明をいただきたい」
「…はい」

丸い瞳を見据えて言えば、彼女は少しだけ眉を下げた。そして腰についたボールを手に取る。中からは白い光とともにゲンガーが出てきた。フワリと宙を舞うそれを見て、彼女は「催眠術を使ったのだ」と、いとも簡単に種明かしをした。だがいわれてみれば単純な話だ。ポケモンのその技を使えば、一時的に記憶を操作することはできる。…あの親戚夫婦が彼女と会っていないと言ったのは、単純にゲンガーの催眠術にかかっていたからだったのだ。
蓋を開けてしまえば何のことはない。まるで考え込んでいた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。

「ですが、何故そのようなことをしたのです」
「!」
「私はまた…後一月もすれば貴女を忘れてしまうところでしたよ…」
「いいんです」
「!」
「忘れてしまって、いいんですよ」

そのために貴方に会ったのだと、彼女は付け足した。予想しない返答に、一瞬だけ呼吸が止まる。跳ね上がる心臓を宥めるように手のひらを握り締めれば、彼女は悲しげな色を顔に浮かべた。

「私はいんです。忘れられたって…いいです。」
「……」
「忘れてください…私のことは、忘れてください」

何故。うまく声にならなかった。かすれた音が喉から鳴り、僅かに空気を震わせる。彼女はただ小さく笑いながら言った。

「私は貴方から大切なものを奪ってしまった。きっと、私は柵になってしまいます。貴方の夢を、妨げる。」
「どういうことですか」
「…辛い思いばかり、させてしまいます。今までだって、私のことを中途半端に思い出したから」
「私が苦しんでいるとでも?」
「思い出すことで苦しむのなら、忘れてしまうべきなのです」

それが人間が持つ、絶対的な自己防衛。


「私は貴方を記憶の檻から出して差し上げたい」

どんなに表面を装っても、記憶により継ぎ接ぎだらけになった今を繕っても、その深奥にはいつだって悲しみがくすぶっている。他人に対して誤魔化せたって、自分を誤魔化すことなどできない。それを不幸と呼ぶのか、不憫と呼ぶのか。ただ彼女はあの日のように情けない顔で笑う。

「私は過去になど縛られてはいません。貴女の勝手な妄想で、私の基準を決めないでください。」
「……」
「貴女の方こそ、まるで呪いのようにここにいるのではありませんか」
「そう、でしょうか」
「……?」
「今の貴方はとても、疲れた顔をしています」
「……」
「今の貴方はいつも、哀しげな顔をしています」
「勝手なことを…」
「寂しそうです…だから、お母さんの治療を払っていたのでしょう」
「…勝手な憶測で語らないでください」
「たった一人の身内においていかれるのが、寂しい…」
「…っいい加減に…」
「私は」
「!」
「寂しかった」
「……!」
「だから、貴方に縋ったのです」

彼女はゆらりと立ち上がり、椅子に座ったままの私の目の前に立つ。こちらを見る瞳は透き通るようにガランドウで、唇は弧を描いていた。
ふとしたように伏せられた目に、不透明な哀しげな光が揺れる。

「アポロ君=v

彼女はあの日と同じように、私を呼んだ。


「アポロ君にとって何が、幸せですか」


彼女は言う。
私は己に穿たれた虚ろを埋めるために貴方の元に来ました。
私は貴方のその幸せたる夢を叶える手伝いをすべく、貴方の元にいるのです。
私は貴方に償うために来ました。
私は過去の罪悪感から逃れたくて、貴方の傍らにいるのです。

「自己中心的な理由でごめんなさい…」

醜い感情であったとしても、つじつま合わせの思慕であったとしても、私は。

「私は」

部屋の片隅で黒い影が揺れた。赤く大きな瞳がまばたく。
意識が揺らめいた。



「私はそれでもあなたを想っていた」



意識はプツンと途切れた。次に目を覚ました時には、私は彼女を忘れているだろう。最後に聞こえたあの言葉が、私が発したものなのか、彼女が発したものなのか、私にはどうにも判別がつかなかった。






20100427




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