▼彼を定義するもの

今日は幸い午後の授業は二時間だけでした。ひたすら無事に学校が終わることを願っていた私にとっては、今のところ何も起こってはいないので、それだけが救いでした。いえ、何もない、というのは語弊かもしれません。ノートが一冊だけゴミ箱に捨てられていましたから。ですが直接的に何かをされたわけでも、誰がやったかわからなかっただけ充分ましなのです。
多少の冷たい視線も、無視も、振る舞いも、耐えられます。それさえ耐えられれば、平和に一日が終わるのです。
怯えながら、中途半端な安心を抱きながら、ひたすら一日が終わるのを待ちました。

そうしてやっと最後の授業を終わらせるチャイムが鳴ります。ガタガタと騒がしい音が教室内に響きました。バッグを手に教室を飛び出す男子生徒や、今だ座ったまま話し込んでいる女子生徒。行動こそはバラバラですが、一様にその姿は年相応でした。
だからでしょう。
立ち上がり、こちらに目配せをして廊下へと出て行く彼の姿に、不思議な気分になります。間をおいてから、私も荷物を纏めて教室を出ました。

彼は一度も後ろを振り返らず、歩を進めます。私はそんな彼の背中を、少しだけ距離を空けて追いました。
放課後に話をするために、彼が指定した場所は私が昼休みにいた屋上に続く階段の踊場です。あの場所は当然のことながら、用事がない限り生徒はわざわざ近づかないような場所でした。
話をするにしても、あまり人目に触れたくない私にとってはちょうど良い場所でした。
階段を上り、踊場に着いたところで彼は足を止めました。私はそれに慌てて階段を駆け上がります。

しかし不意に、彼は屋上に続くドアを見て眉をひそめました。それにつられて私もそちらと見ますと、屋上のドアが開いていたのです。
誰か、いるのでしょうか。
ザワリと嫌な予感が背を這い、私は無意識に一歩後ろへと下がりました。ですが彼は構わずそちらへと歩き出したのです。私はたまらず引き止めるように彼を呼んだのですが、彼は構わず屋上へと出て行ってしまいました。
私はそれに躊躇いながらも彼を追いました。ドアを抜けますと、夕陽が手すりを反射して瞼を突き刺します。思わず眩しさに目を逸らしますと、笑い声が聞こえました。

「!」

屋上に行きますと、同じクラスの女子が三人、そこにいました。

「は……?」
「え、なに、あんたら」
「仲良いって噂ホントだったんだ」

頭の中が真っ白になりました。こみ上げてきたのは恐怖だったのでしょうか。それとも、恥ずかしさからでしょうか。私は逃げ出したくてたまらなかったのです。
何故彼女たちがここにいるのかだとか、そんなことを考える余裕はありませんでした。無意識に逃げようと体は後退します。
しかしそれも彼女から発せられる言葉によって何もできなくなってしまいました。

「いいんじゃないの?クラスで浮いてるもの同士」
「仲良しだもんねえ」
「この間のあのラブシーンも写真に撮っておいてあげたら良かったんじゃない」

その口から吐き出されるのは、私たちを見下した言葉なのでしょう。またあの時のおぞましい感情が私の中に去来しました。
ただ動けずに凝視するだけの私に、彼女たちに笑いました。

「何か言ったら?」
「ムリムリ」
「だっていつもお友達と一緒じゃないと何もできないもんね」
「彼みたいに歩道橋から落ちて病院行った方がいいんじゃない?」

ドクリドクリと、心臓が脈を打ちます。私は悔しかったのでしょうか。隣に立つ彼は、つまらないものでも見るように私を見ていました。
たまらず泣きたくなり、私は俯きます。するとポケットの中の、ムウマが入っているボールがカタカタと動きました。
それを手のひらに収め、もう一度彼女たちを見ました。

「なに? なんか言いたいの?」
「わ、私」
「は?」
「何も、してない」
「……」
「何も、悪いことなんかしてないよ」

私にはそれが精一杯でした。彼女たちは一瞬目を丸くした後に吹き出して笑い出します。私には、理解できません。


「あたりまえじゃん」

「だって」

「これただの遊びよ?」

「あんたの意志なんか関係ない」


理解できません。
理解できません。
理解できません。
私の中の激情が首を擡げました。
ほとんど無意識に一人につかみかかりました。頭の中が真っ白で、その時のことはよく覚えていません。私はしきりに泣きながら何かを叫んでいました。
しかしいとも簡単に突き飛ばされ、その場に崩れ落ちます。暗く淀んだ感情に頭の芯がぐらついていたのでしょう。
私は彼女たちを睨み付け、吐き捨てるように言いました。



「消えればいいのに」



しかし次の瞬間、私はそれを言ったことを今までになく後悔しました。
先ほどまで屋上の入り口にいたランス君の姿がありません。
同時にすぐそばで悲鳴が響きました。

「シンクさん」
「……!」
「消しますか?」

彼は、女子の一人の項を掴み、手すりへとその頭を押さえつけていました。一瞬状況が理解できず、時間が止まったかのように沈黙が訪れます。しかしそれも悲鳴で破られました。
彼が腕に力を入れ、彼女の体の半分がズルリと手すりの向こう側にぶら下がります。今彼が手を離したら、彼女は確実に落ちてしまいます。
彼はひどく穏やかな笑みを浮かべて言葉を紡ぎました。

「シンクさん、消しますか?」
「……あ」
「……」

言葉が喉に詰まって、うまく出てきません。私は首を必死に左右に振りました。
それに彼は「そうですか」と小さく答え、彼女を手すりから離し、その場に放り出しました。へたり込んだ彼女の目からは、ボロボロと涙が零れます。周りにいた他の女子は、悲鳴に近いものを上げながらその場から逃げ出しました。
私は体に力が入らず、その場から立ち上がることもできませんでした。ランス君は表情から笑みを消し去り、私の腕を掴んでは立たせました。

「帰りながら話しましょう」

入り口に放り投げられていた私のカバンを持ち、彼は私の腕を引いていきます。
私はただひたすらポケットに入っているボールを強く握り締めました。
帰路の途中もまともに口を利くことができず、ただ彼の言葉に頷く程度しかしていません。ですので、正直会話の内容はほとんど覚えてなかったのです。
それだけ私は彼が、怖くてたまりませんでした。

しかし別れ際、その時だけ恐怖は払拭されました。彼の言葉があまりに意外だったからです。その時の言葉だけ、私の記憶から剥がれ落ちることはないでしょう。


「……シンクさん、ともだち≠ノなってくれませんか」


頷くとはにかむように笑った、年相応の彼の顔を初めて見ました。






20100819




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