▼彼らの堕落論

「__君は本日は体調不良でお休みになります」

__君とは誰だったでしょうか。今ではすっかり忘れてしまって、思い出すことができません。当時の私は、担任の教師の言葉に耳を傾けながら、何も書かれていない黒板をぼんやりと眺めながら考えていました。
前の席のランス君の背中が視界に映ります。
今日改めて顔を合わせたのですが、彼はこれといって変わった様子もありませんでした。
いつも通り学校に来て、互いに一言も言葉を交わすことなく席に着きます。
いくら昨日のことがあったとはいえ、やはり突然馴れ馴れしくなるのは不自然ですし、都合が良すぎるでしょう。
教室の中の、同級生たちの不快な視線も、嘲笑も、聞こえてないかのように席に着きました。
感覚の一切を殺して、私は私の中に閉じ籠もることにしたのです。
しかし聞かないふり、見ないふりをしたとしても、所詮は自分の中の感覚に過ぎません。
耳を閉じることはできませんし、目を閉じたまま生活することはできないのです。

だからでしょう。偶然に視界に空いた席が映りました。
その席が今日欠席の人、だと思います。
同時にその人は昨日、ランス君を羽交い締めにしていた人でもあったのです。
ホームルームが終わり、担任の先生が教室を出て行きます。それを合図に教室の中はざわつき始めました。
一時間目が教室なので、移動の必要はありません。ですので、私は教科書を机の上に並べて、後は頭を伏せていました。

その時奇妙な話が耳に入ったのです。

「ねえ、__君が何で休みか知ってる?」
「風邪とかじゃないの?」
「何か違うらしいわよ」
「何でも昨日の夜に外で……」
「発狂したみたいに道路走ってたんだって」
「発狂?」
「そう。ワケのわからないことを叫んでいたらしいよ」
「怯えたように叫びながら一人で走ってたんだって」
「彼のこと見た人たくさんいるし」
「そしてそのまま近くの歩道橋の階段で足を踏み外して」
「通りかかった人が救急車を呼んで助かったらしいけど」
「あ、その救急車呼んだのが私の叔父さんで」

嗚呼、ひどく嫌な話です。
この年頃ですし、そういった奇怪じみた話に興味があったのでしょう。しかし私には単なる気味の悪い話にしか過ぎませんでした。
深く息を吐き出したあと、私は机に額を押し付けるように身を縮こまらせました。そして僅かに顔を上げて、前の背中に視線を向けます。

肩越しにビリジアンの瞳が向けられました。冷ややかに細められたそれが、笑っていたように見えました。



▼幕開けと幕引き

昼休みは、屋上に続く階段の踊場へ、こっそりと一人で向かいます。もちろんこれは最近できた習慣です。屋上は普段鍵がかかっていますので、行くことができないのです。
そこでいつも秘密で連れてきているムウマを出します。この子は人懐っこい性格なのか、最近ではすっかり仲良くすることができました。
たまに給食でパンなどが出た時は、バレないように持ち出してそこで食べさせたりしたものです。

しかしムウマを見ながら、ふと、ランス君との会話を思い出します。
彼ら全員に報復することができますよ
思い出すたびに胸中がざわつきました。得体の知れない罪悪感に襲われて、何もしてないのに悪いことをしたような気分になるのです。
そんな私の表情の変化に気付いたのか、ムウマは少しだけ不安げに顔を覗いてきました。その小さな体を抱き締め、しゃがみ込みます。
すると唐突に声が聞こえました。

「何をしているんですか」
「!」

驚きのあまり血の気が引いていきます。私はとっさにムウマを隠そうとしました。しかしそれより先にビリジアンの瞳が視界に映り、また別の焦りが込み上げます。

「! ああ、それが君のムウマですか」
「あ、あの」
「心配しなくても誰にも言いませんよ」

言いながらこちらに来る彼に、無意識に体が強張りました。腕の中のムウマを抱き締めながら、不意に胸中に発露した不安に俯きます。

「……放課後、話をしませんか」
「え……」

あまりに唐突な言葉に、私は答えに詰まりました。しかし少しだけ困ったように眉を下げた彼に、慌てます。

「用事があるなら別に」
「あ、ううん。大丈夫」
「では、この場所で」
「う、うん」

目を細め、静かに彼は口元だけで笑いました。腕の中のムウマが小さく鳴き声を上げます。そのまま踵を返して去っていく後ろ姿を眺めながら、私は緊張しました。

昨日の電話をした時とは、違う緊張でした。不安にも似た鼓動に、私は少しの間動けず、鳴り響いたチャイムに我に返りました。
あの時の彼の目は、全く笑ってはいなかったのです。
ひどく冷たい目をしていました。
でも、それはあの時。

「……!」

あの時。
クラスの女子が、今日欠席だった男子の話をしていたとき。
あの時見えたは彼の横顔は。
必死に頭を過ぎる不吉な考えを振り払いました。






20100807




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