目の前に差し出されたものを知覚するのに、僅かな間があった。真っ白なテーブルクロスに淡い影と皺を刻むそれは、重厚に飾られた照明に瞬くように輝く。滑らかな輪が煌びやかに自己主張をする。聞き覚えのあるクラシックが鼓膜を引っ掻いた。目の前に並べられた料理の数々は、少なくとも一般家庭の食卓には有り得ないものだ。目の前にいる男性の意図することを咀嚼し、私は静かに首を振った。

「忘れられない人がいるの」
「構わない。君を誰よりも幸せにする。忘れられないという人物を忘れさせるほど、僕は君を幸せにできるよ」
「そう……。でも、受け取れない」
「別にすぐに答えはくれなくてもいいんだ。これから何か、変化があるかもしれない」
「……私には、必要ない。いらない」
「……」

細められた瞳が、指輪の色を反射して揺れた。差し出された指輪を、指先で押し戻す。除光液で落としきれなかったマニキュアが、甘皮に僅かに付着していた。伸びた爪も、もう切ろう。爪を飾り立てることへの関心も薄れてしまった。見せたい相手は、目の前にいる男性ではないのだ。静かに胸のうちを焦がす懐古に、手のひらを膝の上に戻した。
彼は目の前へとスライドさせられた指輪を視界に収め、薄い唇から冷えた呼吸を零した。

「ごめんなさい」
「いや、僕が早すぎたんだ」
「ごめんなさい……」





家まで送っていく、と穏やかに微笑んだ彼を押しのけ、タクシーで帰宅した。本当に、優しい人だと思う。ここまで気を使い、尽くしてくれている。愛してくれている。私も彼を愛せば、幸せになれるのだろう。
忘れられない人がいる、と断った私を、一途な人だと彼は優しく笑って受け止めてくれた。返した指輪も、何時かのチャンスのためにと、笑いながら懐にしまっていた。
内心はきっと、傷付いたのかもしれない。私に気を使って、気丈に振る舞っているのだ。
そんな彼を愛することがヒューリスティクスだ。彼との未来は、御伽噺のように明るく綺麗なものなのだろう。影もない。曇りもない。飴色の朝焼けのような、眩しくて暖かい未来の絵を描くのは想像に難くない。

しかし私には、そんな未来を手にする資格がない。私には、ないのだ。
そっとポケットに手を忍ばせ、モンスターボールを取り出す。中から自発的に出てきたムウマは、小さな鳴き声を上げた。

「幸せになんて、なれない」

ムウマを胸に掻き抱きながら、そっと零した。
あの日、歩道橋で出会った青年が脳裏に蘇る。
私は未だ彼を探している。忘れてはいけない。忘れられない。しかしそれは、少女の甘い恋心とは遠く隔てたものだった。
罪悪。断罪。贖罪。劣等感。――あの日、歩道橋から私が突き飛ばした彼の父。
私は、本当は監獄にいるべき人間だ。こんなところで、誰かに愛されるような生活は許されない。だから私は彼を探しているのだ。

「ランス君……」

嗚咽のように声を漏らす。街灯に照らされ、現実味を削がれた視界は無機質に横たわっていた。
彼に会って、罪が消えるわけではない。償われるわけでも、ましてや許されるわけですらないのだ。私を許す人間などどこにもいない。
ただ、ふと日常に疲れを感じただけだった。あの日のことを思い出し、平々凡々たる日々を送る自分に失望することには疲れた。真実を知る彼の前ならば、そんな柵から解放される気がしたのだ。

浅く息を吐き出し、伏せた瞼を持ち上げる。視線は爪先を凝視したまま、ゆっくりと歩き出した。無意識に、ごく自然に、足は迷わず影の中を進む。背後へと遠ざかる家を感じながら、路に漏れる他人の家明かりに怯えるように路を選んでいく。住宅街を抜け、交差点を通り越し、人の波をかき分けながら、あの歩道橋を目指した。
会える確証も希望もない。ただ、そこに向かいたかっただけだった。

カン、とヒールが段差を踏み鳴らす。最後の1段を上りきり、大きく息を吸った。煙草の匂いや埃が混じった空気はひどく乾燥している。気道をざらりと撫でる冷えた夜気は、ゆっくりと全身に巡らされる。
ムウマが小さな鳴き声を上げ、私の頬にすり寄る。その柔らかな頭部をそっと撫で、私は手すりに指先を重ねた。無機質で硬質な感触は、ここから見える俯瞰が変わっても変わらない。昔よりも遥かに明るさを増すネオンの明かりに、懐古の念はジワリと崩れていく。
私の中の彼の面影も、こうして塗り潰されていくのだろうか。存在は記憶に昇華され、記憶は面影を「今」に食い潰され、忘却される。概念だけの世界。やり切れないと、ぼんやりと思う。私が1人思い悩んだ時間も、遠慮するように遠ざけた幸せも、「時間」を前にすれば無意味だ。私が勝手に苦しんでいる。滑稽なトラジコメディを嘯き、ぼんやりと流動する。
彼の罪も、私の罪も、誰も許さない。許してくれる相手がいない。だから、私は彼からの断罪と許しを求めているのだ。誰も許してくれないなら、私の業を知っている人間に。
――楽になりたかった。
毎日、毎日、過去の事件の杞憂に怯えて過ごすのは疲れてしまった。切り取られた狭い日常で、気丈に振る舞い、息が詰まるような時間を過ごすことに限界を感じていた。

……10年耐えたのだ。それでもまだ足りない。私は恐れている。怯えている。自分の中に根を張った業に、激しい罪悪を要されている。もう、許して欲しい。

「許して……」

あと何年、過去に取り憑かれて生きていけば良いのか。
ずるずるとその場に崩れ落ち、歩道橋の手すりを握り締める。手のひらを刺す冷たさに反し、瞼は熱を孕んだ。ムウマが悲しげに泣く。

「許して……許して、もう、許して……」

アスファルトに黒いシミが打たれる。遠くで聞こえる雑踏に、私は嗚咽した。
――こんな日々は続くのなら、いっそのこと。

「殺して……」

許して、殺して、助けて。
助けて。
ムウマは戸惑うように私の周りを旋回する。その紫紺の肢体を胸に掻き抱き、咽び泣く。
昔は、醜態を隠してくれた夜の帳はもう、ない。憎たらしいほどここは明るい。暴くように、糾弾するように、逃げ場はない。

――「こんなところで、よくそんな情けない顔が晒せますね」
「!」

不意に、頭に軽い衝撃が降ってくる。視界が黒で覆われる。息を呑み、顔を上げた。頭部に一方的に被せられたそれが帽子であることは、存外すぐに認知した。とっさに振り返るが、帽子に視界が遮られ、声の主の容貌はわからない。しかし鼓膜から脳髄へと染み渡る音は、間違いなく私が知っているモノだった。
踵を返すその影に、とっさに帽子を外して立ち上がる。
懐かしいネイビーグリーンの髪が、廃れた風に虚しく揺れた。

「ラン、ス……くん……?」

振り返らず、その背中は離れていく。途端にこみ上げてくる熱に、私は大きく息を吸った。もつれる足を引きずりながら立ち上がり、帽子を握り締める。
人の波の中に溶けるように離れていく姿を追った。神経質に点滅する街灯。ビルの明かり。店の照明。アルコールの匂い、香水の香り、煙草の匂い。気が遠くなるような攪拌された空間だった。雑踏を孕んだ夜の街は、冷ややかに廃れていく。それらを掻き分け、彼を目指した。

彼は雑然とした世界から逃れるようにアスファルトの上を進んでいく。私はその後を追いながら、少しずつ、街の飾り気が剥離していく路地裏へと向かっていることに気付いた。
交差点を通る。住宅街を抜ける。路地裏に入る。彼はそこで立ち止まった。
建物の影に黒く塗り潰された小さな空間だった。眩しく凹凸の激しい色もない。静かな暗闇の中だった。私は震える呼吸と共に口を開いた。

「ランス君……」
「どうせなら、君も、そう思いまして」

ビリジアンの瞳が向けられる。10年前よりずっと大人びた容姿は、深い影を宿して艶やかに笑んだ。
彼は星も見えない安い夜空を見上げ、変わってしまいましたね、と吐息を吐いた。私はその言葉が意図する本当の意味を咀嚼できず、曖昧に声を漏らして返した。1歩、彼は私の元へと歩を進める。

「日の当たらない場所は呼吸が楽でした。あの頃も、今も」

2歩、彼は私に向かって足を動かす。

「しかし日をかいくぐるのは途方もなく滑稽な話だとは思いませんか」

3歩、4歩、5歩。彼は私の目の前に立つ。躊躇いがちに持ち上げた視線の先にひどく疲れきった顔をした彼がいた。彼は私の肩に額を押し付け、呻くように言った。

「疲れたでしょう」

私は、疲れました。
腹部に冷たい感触が突き立てられた。ゾッとするような冷たさの後に、内臓に焼き付くような痛みが走る。彼の表情は変わらない。

「私もすぐに行きます」

べしゃりと、まるで糸を失ったマリオネットのように私はアスファルトの上に崩れ落ちた。ごぼりと咳と共に喉の奥から赤がせり上がってくる。それを舌で外へと押し出した。鉄臭い。

「ランス、君」

もう一度彼の名前を呼ぶ。星も月も、街の明かりも届かない真っ暗な闇の中、私は一瞬だけ息を止めてみた。

「好きでした、貴女のこと」





Breathing
in
the
Darkness

呼吸は暗闇に、




20111027




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